第12章では自殺したと伝えられたテリー・レノックからの手紙が届く。この手紙は、第3章、第4章の<ヴィクターズ>での会話と並び、読む者にテリー・レノックスという人物の持つ不可思議な魅力を鮮やかに印象づける。
手紙はマーロウのバードハウス型のメイルボックスに届いている。
The letter was in the red and white birdhouse mailbox at the foot of my steps. A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised.
清水訳では「箱の上のきつつきがひっくり返されていて蓋が開いてた」と訳されており、村上訳では「箱の上にはキツツキがついていて、郵便物が入っているしるしに、その翼が上に向けられていた」となっている。the swing armとはアメリカで良く見る、郵便物が届いているかどうかを示すために水平から90度起き上がるようになった可動式のフラッグのことだろう。マーロウのはフラッグに木製のキツツキがくっついているのだ。正確には「箱の上のスイングアーム式のフラッグについているキツツキが起こされいた」ということではないだろうか。
手紙はメキシコからだ。Correo AéreoはAir mailのスペイン語、a flock of ~で、たくさんの~という意味。
The letter had Correo Aéreo on it and, a flock of Mexican stamps and writing that I might or might not have recognized if Mexico hadn't been on my mind pretty constantly lately.
writing that I might or might not have recognized if ~のところは、直訳すると、if以下でなければ「筆跡を認識できたかもしれないし、あるいは、できなかったかもしれない」となる。要はどちらなのか判らない、と言うことだが、意味が通じる日本語にすると「筆跡を認識できたかどうかはわからない」という感じか。
オタトクランという湖のある山間の小さな町のお世辞にもきれいとはいえないホテルの一室でこの手紙を書いている、とレノックスの手紙は始まる。ホテルの部屋はメキシコ人に見張られており、この手紙はコーヒーを運んでくるボーイにチップをやって、部屋の窓から見えるポストに投函してもらうつもりだと記されている。
孤独で、哀れで、惨めで、諦めきった、それでいて饒舌でどこかしら胡散臭い、悲しくも美しい手紙だ。テリー・レノックスという人物そのものを象徴しているようだ。
全文掲載したくなる文章だがいくつかの「テリー節」を引用しよう。
Call it an apology for making you so much trouble and a token of esteem for a pretty decent guy.
同封した5,000ドルは「君に多大な迷惑をかけたことへのお詫びであり、心得を知る人間への敬意のしるしと思ってもらいたい」(村上訳)
I've done everything wrong as usual, but I still have the gun.
「僕は例によってすべてをしくじってしまった。しかし銃だけはまだ手元にある」(村上訳)
I might have killed her and perhaps I did, but I never could have done the other thing. That kind of brutality is not in my line. So something is very sour. But it doesn't matter, not in the least.
「僕は彼女を殺してもおかしくはなかった。というか、たぶん、実際に僕が殺したのだろう。しかしそのあとのことは僕とは無関係だ。あんな酷いことが僕にできないはずがない」(村上訳)
They have their lives to live and I'm up to here in disgust with mine.
「彼ら(注:シルヴィアの父と姉のこと)には彼らの生活があるし、僕は自分にうんざりして我慢ができなくなっている」
Sylvia didn't make a bum out of me, I was one already.
「シルヴィアが僕を堕落させたわけじゃない。僕はその前から堕落していたのだ」(村上訳)
At least she died young and beautiful. They say lust makes a man old, but keeps a woman young. They say a lot of nonsense. They say the rich can always protect themselves and that in their world it is always summer. I've lived with them and they are bored and lonely people.
「少なくとも彼女は若くて美しいまま死んだ。放蕩は男を老けさせるが、女を若く保たせると人はいう。人はいろんなつまらないことを言う。金持ちは常に手厚く守られ、常夏の世界に住んでいる、そんなことを言うものもいる。僕は金持ち連中と世界をともにしてきたが、彼らはただの退屈した淋しい人たちに過ぎない」(村上訳)
I feel a little sick and more than a little scared. You read about these situations in books, but you don't read the truth. When it happens to you, when all you have left is the gun in your pocket, when you are cornered in a dirty little hotel in a strange country, and have only one way out-believe me, pal, there is nothing elevating or dramatic about it. It is just plain nasty and sordid and gray and grim.
「気分がいささかよくないし、かなり怯えてもいる。こういう状況について君も本で読んだことがあるだろう。しかし本で読むのと実際に体験するのとではずいぶん違うものだ。もし現実にそういう状況に置かれたら、つまり残されているのがポケットの中の拳銃だけで、異国の薄汚い安ホテルの片隅に追い込まれた、袋のネズミにされているとしたら、そこには心高ぶるものもないし、ドラマチックなものもない。そいつは僕が保証するよ。ただ薄汚く、みすぼらしく、色褪せて、陰惨なだけだ」(村上訳)
そして極めつけの名セリフ。こうした繊細で傷つきやすい感情の吐露がいつの間にか相手の心を掴んでしまう、というのがテリー・レノックスが放つ抗し難い魅力だ。
So forget it and me. But first drink a gimlet for me at Victor's. And the next time you make coffee, pour me a cup and put some bourbon in it and light me a cigarette and put it beside the cup. And after that forget the whole thing. Terry Lennox over and out. And so goodbye.
手紙の最後はこう締めくくられる。
I like Mexicans, as a rule, but I don't like their jails. So long. Terry.
「僕はたいての点でメキシコ人が好きだが、メキシコの監獄だけは好きになれない。それでは、テリー」(村上訳)
マーロウは「センチメンタルかもしれないが」と前置きしながら、テリーの頼みどおりにコーヒーを淹れ、煙草に火をつけ、あの朝テリーが座った側のテーブルに置く。
I sat there and looked at it for a long time. At last I put it away in my letter case and went out to the kitchen to make that coffee. I did what he asked me to, sentimental or not. I poured two cups and added some bourbon to his and set it down on the side of the table where he had sat the morning I took him- to the plane. I lit a cigarette for him and set it in an ash tray beside the cup. I watched the steam rise from the coffee and the thin thread of smoke risefrom the cigarette.
やがてコーヒーは湯気を立てるのをやめ、煙草の煙も消える。It didn't seem quite enough to do for five thousand dollars 「とても5,000ドル分の仕事とは思えなかった」とやるせなさをいつもの減らず口でなんとか紛らわそうとするマーロウ。
映画に行き、一人チェスを試み、ハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲をかけてみるが、何をしても眠れないマーロウ。「私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらいめずらしい」と相変わらずのマーロウ。ここでのkillは酒瓶をすっかり空ける、と言う意味。
A white night for me is as rare as a fat postman. If it hadn't been for Mr. Howard Spencer at the Ritz-Beverly I would have killed a bottle and knocked myself out. And the next time I saw a polite character drunk in a Rolls-Royce Silver Wraith, I would depart rapidly in several directions. There is no trap so deadly as the trap you set for yourself.
「この次ぎにロールズロイス・シルバー・レイスの中で酔いつぶれている礼儀正しい人間を見かけた時は、行き先など考えずに一目散にその場から離れただろう」
自己韜晦の深さは取りも直さずマーロウの心痛の大きさを表している。それはマーロウが言うように「自分が自分に仕掛けた罠」によるものだったのだが。
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