岡崎京子の『リバーズ・エッジ』には元ネタがあることはよく知られている。
ティム・ハンターが監督をした映画『リバース・エッジ』(原題River’s edge 1987年)だ。この映画は日本語のタイトルが『リバース・エッジ』となっているが、原題の発音を正確に日本語にすると当然リバーズ・エッジとなり、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』と同一の作品名だ。
世田谷文学館で開催されていた岡崎京子展をきっかけに『リバーズ・エッジ』を読み返したこともあり、気になっていた映画『リバース・エッジ』を観てみた。
映画『リバース・エッジ』のストーリーはこんな感じだ。
町外れに河が流れているアメリカの田舎町。高校の男子生徒ジョンが川原で女友達を絞殺する。ジョンは女友達を殺害したことを他の友人たちに隠すふうでもない。仲間たちはジョンと連れ立って現場に行くが、女友達の死体を発見しても全員が無感動に眺めるだけで、その後はなにごともなかったように日常に戻っていく。キアヌ・リーブスは警察に通報し、友達の死体を見ても実感がわかなかった、仲間の全員がそう思っているようだ、そしてそのことが怖くなったと告白する。元ならずもので妻を殺害した過去があるデニス・ホッパーがジョンを匿う。彼はその死の願望を見透かしたようにジョンを河原で射殺する。仲間たちは普段と変わらない様子で殺された女生徒の葬儀に出席する。
『リバーズ・エッジ』を読んだ人間は、映画『リバース・エッジ』が岡崎京子を刺激し、ヒントを与え、考えさせた結果、『リバーズ・エッジ』が生まれたことがはっきりとわかるはずだ。
河が流れている町の高校生の物語、河に浮かぶ捨てられた人形、河原に転がる死体、通れだって死体を見に行く仲間たち、死体を隠す工作、離婚した両親や兄弟間のいさかい、男友達の間を転々と寝る女友達など、驚くほど似ているところが多い。
最大の共通点は、主人公の高校生たちが死体を見ても無関心な様子で実感がわかないと告白する点だ。
女生徒の美しい死体とそばに取り残された無関心なジョンの様子は、殺人すらもなんらの実感ももたらさなかったことを暗示している。
ただひとり警察に通報したキアヌ・リーブスも、ジョンを庇って死体の隠蔽を画策している仲間のステディだった女友達を寝取ってしまうなど、その後はてっきり事件には無関心な様子だ。女友達といっしょに殺害された女生徒の葬儀に参列するキアヌ・リーブスは普段どおりに幸せそうな表情だ。
デニス・ホッパーがジョンを河原で撃ち殺すのは、同じ殺人者ゆえに感じたジョンの実感のなさへのいらだちや嫌悪感を象徴しているのだろう。
実感のなさに耐えられないように惨劇が起こる。しかし、その惨劇すら実感のない生をなんら変えることはなく、むしろ実感のなさからくる無関心のなかに溶解してしまう。
映画『リバース・エッジ』は実感のない日常の不気味さを描くものの、実感のなさの正体、実感のない日常を生きざるをえないことの意味は描かれてはいない。
岡崎京子の『リバーズ・エッジ』はこの実感のない生を突き詰める物語といえる。
若草ハルナは実感のわかない毎日を送っている。
だけどそれがどうした?
実感がわかない
現実感がない
去年の夏に観音崎君とHした
「好きだから」というよりセックスというものをしてみたかったのだと思う
あたし達は何かをかくすためにお喋りをしていた
ずっと
何かを言わないですますためにえんえんと放課後お喋りをしていたのだ
よっちゃんやルミちゃんとのお喋りも観音崎君とのセックスも、実感がわかない生の陰画のようだ。
ハルナは観音崎君からいじめられている山田君に好意を抱いていく。ハルナは自らの実感のない日常ではない別の世界を求めるように山田君に惹かれていく。
山田君が、いじめから庇っくれたお礼にと、僕の宝物だといって川原の死体を見てくれた時もハルナは「何か実感がわかない」としか感じない。
山田君は同性愛者だと告白する。同じ死体の秘密を共有している吉川こずえという後輩のことも知らされる。吉川こずえはモデルをしており、学校でもその容姿が注目を集めている存在だ。
河原の死体という秘密を周囲に隠しながら三人の不思議な関係が生まれる。
いくつかの惨劇が起こる。
同性愛者の山田君が偽装で付き合っていた田島カンナがハルナと山田君の仲を誤解してハルナのマンションの部屋に放火し、自らは焼身自殺してしまう。ルミちゃんは観音崎君の子を妊娠する。中絶費用を要求するうちに観音崎君と口論になり観音崎君はルミちゃんの首を絞める。ルミちゃんは一命を取りとめるが、帰宅後、ルミちゃんの日記を盗み見ている姉と罵り合いになり、ルミちゃんはカッターで胸を切られ、動転した姉も自分の手首を切る。結果、ルミちゃんは流産する。
惨劇の後、ハルナは転校し、吉川こずえは学校をやめ、みんなはバラバラになる。
ハルナの引越しの前夜。ハルナと山田君は町を流れる河にかかる橋の上で会う。
「ぼくは生きている時の田島さんより死んでしまった田島さんの方が好きだ。ずっとず
っと好きだよ」
「・・・山田君は黒こげになってないと人を好きになれない?」
「そんなことないよ。ぼくは生きている若草さんのことが好きだよ。本当だよ。若草さ
んがいなくなって本当にさみしい」
涙がぽたぽたと
河に落ちていった
うつむいて
山田君に顔を見られないよう
声を殺して
山田君に泣き声を聞かれないよう
このハルナの涙の意味するものはなんだろう。
好意を寄せている山田君からの「好きだよ」という一言がうれしかったから、その山田君やいろいろあった仲間と明日には離れ離れになってしまうことがその一言で実感となって胸に迫ってきたから、というニュアンスも当然含意されているとは思われる。
しかしながら泣いていることを山田君から必死で隠すハルナの胸中にはもっと別の思いが湧き上がっていたのではないだろうか。
ハルナは気がつく。
山田君の孤独と哀しさを。
山田君こそ実感のない生を生きているということを。
ハルナたちにとってのお喋りやセックスや消費が山田君にとっては河原の死体だったことを。
ハルナは気がつく。
自分自身の孤独と哀しさを。
生に実感の持てないもの同士につながりなど生まれないことを。
山田君がハルナを「好きだ」といった意味を。
ハルナは気がつく。
ルミちゃんや観音崎君や田島カンナや吉川こずえやそのほかのみんなの孤独と哀しさを。
お喋べりやセックスや消費で実感のない生を忘れているように生きるしかないことを。
惨劇さえも、なんら実感を生むことはないことを。
『リバーズ・エッジ』で何回か引用される「平坦な戦場で僕らが生き延びること」(ウイリアム・ギブスン)とは、そうした彼ら(彼女ら)の生のことだ。
そしてそれをもたらしたものは、紛れもなく「生産」や「豊かさ」や「幸せ」や「平穏」以外のなにものでもないことを『リバース・エッジ』の全編に描き込まれた風景が物語っている。
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