遅れてきたシネマディクトの記録。2015年1月~6月に観た映画106本の記録。劇場とDVDまた2回目、3回目の鑑賞などゴチャ混ぜです。
1.ジャコ萬と鉄/深作欣二(1964)
北海道日本海沿岸の鰊猟場を舞台にした物語。やん衆と呼ばれる本州からの出稼ぎ漁師たちと網元の対立などが丁寧に描かれる。ハッピーエンドに終わる活劇ドラマとしてよりも、かつての産業と暮らしが描かれた作品として興味深い。親方の山形勲はいつも心配そうに海を見つめている。その背中が鰊漁のリスクの大きさを物語っていた。日本における鰊漁は昭和32年に幕が下りる。長男役の若くはつらつとした高倉健の姿が印象的だ。気弱な嫁婿大坂四郎もはまり役。1949年の谷口千吉監督作品のリメイク。<1月1日>
2.ローマの休日/ウィリアム・ワイラー(1953)
ヨーロッパの王女がノーブレス・オブリージで最後、身を引くだけでなく、一般市民もちゃんと犠牲を払う、というところが実にアメリカ的だ。今回、初めて気づいたが、オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックは真の意味でベッドを共にしていたのだ。サンタンジェロの船上パーティの騒ぎで運河に落ちキスをした後、時間の経過を意味する固定ショットをはさみ、シーンは男の部屋にいる二人のカットへと飛ぶ。もはや朝の寝起きの時とはうって変わった2人の表情と仕草。当時の表現の制約もあったのだろうが、意味深なセリフ回しと演技のニュアンスの変化でそれを暗示するウィリアム・ワイラーの演出は見事だ。それに応えるオードリー・ヘップバーンもなかなか上手い。脚本のイアン・マクラレン・ハンターとは赤狩りで追放されていたドルトン・トランボのこと。<1月3日>
3.ドラゴンタトゥーの女/デヴィット・フィンチャー(2011)
いきなりツッペリンの「移民の歌」で始まる本作は、スウェーデンのある裕福な一族の過去に起きた殺人事件の謎を失意のジャーナリスト(ダニエル・クレイグ)とドラゴンの刺青をした女ハッカーのコンビが探る物語。ルニー・マーラーが現代版の女ハードボイルドキャラを演じる。悪態をつく代わりに世間を無視し、殴られるかわりに犯される。ただしその報復のすさまじいさは、到底、男など足元にも及ばないという極北のキャラだ。寒々しい冬の雰囲気、銃(SIGザクエルP228)の扱いなど、細部のリアリティもしっかりしている。ラストシーンの切なさも定石どおりで嬉しい。<1月5日>
4.シュリ/カン・ジュギュ(2000)
南北首脳を暗殺して自分たちの手で統一を果たそうとする北朝鮮工作員をチェ・ミンシクらが演じる。ハリウッドから本物のステージガンを借りて撮られた市街地の銃撃戦は迫力あり。銃の扱いなども全員が様になっている。キム・ユンジンがクールなスナイパー役で祖国と恋人の間で引き裂かれてゆく姿を演じる。最後、あえて狙撃の引き金を引き、矛盾する自分に決着をつけようとする姿が切ない。恋愛シーンはいま観ると古臭い。<1月6日>
5.仁義の墓場/深作欣二(1975)
辞世の句「大笑い三十年の馬鹿騒ぎ」を残して自死した破天荒なやくざ石川力夫をモデルに描いた作品。主人公の時代に馴染めないで取り残され、狂気にいたる姿には監督の思いが込められているのだろう。ペイ中となって釜ヶ崎のドヤで芹明香とくすぶっているシーンなどセピア色の耽美的な画面が印象的だ。若い頃の渡哲也は何を考えているか分からない人物をやらせるとぴったり。東映初出演。<1月8日>
6.毛皮のヴィーナス/ロマン・ポランスキー(2013)
演出家の男が俳優志望の女のたっての願いでマゾッホ原作の劇中劇のオーディションを始めるが・・・。演出者と演技者、劇中の男と女、現実の男と女、さらに支配と被支配を巡る隠された願望などの感情が、二人の演技に現れては消え消えては現れる前代未聞の演出。ストーリー自体がまるでセックスのアナロジーのようだ。マチュー・アルマリックとエマニュエル・セニエの白熱する演技バトルであっという間の1時間半。81歳とは思えないポランスキーのエロさに脱帽。<1月11日>
7.グッドフェローズ/マーティン・スコセッシ(1990)
小気味良いテンポとロック音楽で語られるマフィアの実話を元にした物語。人気クラブの裏口から入って、ステージ前の特等席に案内され、いつの間にかシャンパンが運ばれてくるという3分半のトラックアップによる長回しは主人公のモットーである「行列に並ばない人生」を象徴する名シーン。パレルモ風カツレツをはじめ出てくる料理がみんな旨そうなのはイタリアン・マフィアならでは。シド・ヴィシャスが歌う『マイ・ウェイ』が流れるなか、行列に並び、ケチャップをマリナーラソースとして満足しなければならない主人公の人生の最後が語られるラストはほろ苦い。<1月13日>
8.JSA/パク・チャヌク(2000)
JSAとはJoint Security Areのこと。38度線で対峙する韓国軍と北朝鮮軍の4人の兵士の間にふとしたことで個人的な交流が始まる。当然のことながら軍の知るところとなり、動揺した4人の間に惨劇が起こる。冷静な判断力でなんとか事態を収拾しようとする北の兵士ソン・ガンホ。中立の立場から捜査にあたるスイス軍の捜査官イ・ヨンエの真実を求める姿が更なる悲劇を生むのは一筋縄ではいかない南北問題を象徴しているのか。当時の太陽政策下ならではの作品という見方も。<1月14日>
9.ゾディアック/デヴィッド・フィンチャー(2007)
実在した未解決の連続殺人事件をテーマにゾディアックと名乗る犯人に翻弄される刑事、新聞記者、風刺漫画家たちを描く。謎解きを期待するとややあてが外れる。むしろ主人公たちがさまざまな容疑者に振り回され、徐々に疲弊して、壊れていく様子を観る者も追体験するような構成と展開になっている。『大統領の陰謀』と似ている。マーク・ラファロが演じたSFPDのデヴィッド・トースキーは有名刑事でマックイーンの『ブリット』でのアップサイドダウンのホルスター姿の元ネタはこの人。くしゃくしゃヘアと蝶ネクタイは真似しなかったらしい。犯人のゾディアックも『ダーディーハリー』のスコーピオンのモデルになった。<1月16日>
10.誰よりも狙われた男/アントン・コービン(2014)
ハンブルグを舞台にイスラム過激派の資金源の疑惑を捜査するテロ捜査官の物語。過去にCIAにはめられ自分の情報網の人間を犠牲にされた過去を持つ現場のテロ捜査官をフィリップ・シーモア・ホフマンが演じる。原作はジョン・ルカレ。国家に奉仕しながら最後は権力によって挫折させられるスパイの悲哀と無力感は得意とするところ。またしても権力によって裏切られる瞬間が秀逸。究極の無力感のなか、それでも自らへの信頼を失わずに生きることができるのかを問うようなラストも胸に迫る。本作がFSHの遺作となった。<1月17日>
11.ゼロ・グラヴィティ/アルフォンソ・キュアロン(2014)
宇宙空間に身を置いてみたい、宇宙でひとりぼっちになってしまったら、など素朴な興味に訴えかける稀有な映像体験。サンドラ・ブロックが地球に戻り、思わず重力を再認識するラストもよかった。実際は宇宙で飛行船の軌道傾斜角を変えるには多大なエネルギーが必要とされ現実的には難しいのだそうだ。何故、宇宙船は落ちてこないで軌道を回るのか?など恥ずかしながら調べてしまった。<1月19日>
12.鑑定士と顔のない依頼人/ジュゼッペ・トルナトーレ(2013)
恋愛もの、主人公と観客を騙す詐欺師もの、そして後半20分は犯人の心理を探るミステリーもの、という3つのモチーフを一本にぎゅっと詰め込んだ意欲作。その構想に敬意を表したい。その意図ゆえミスリードを誘う映像と謎解きのヒントになる映像が錯綜するため、すっきりとしない感は否めないが、それも観る楽しみと割り切っているのだろう。「いかなる贋物にも本物は潜む」という信念でNight&Dayという名の店で若い女を待ち続けるジェフリー・ラッシュ。きっと彼女はくるだろう。<1月20日>
13.山の音/成瀬巳喜男(1954)
監督の指示は、川端康成の原作に漂う、舅(山村聡)と嫁(原節子)との間の性的な感情を匂わせるものは排除するようにとのことだったらしいが、それでも嫁の鼻血を介抱する舅や嫁のメタファーとしての能面に見惚れる舅など、原作由来の性的雰囲気は濃厚に残っている。上原謙のサディズム、復讐のように堕胎する原節子、確信犯のように中絶を拒む愛人など、暗いエロスが全編を覆う。とはいえ、嫁が離婚と別離を切り出す神宮外苑でのラストは、川端の持つ静かな異常さからの脱却が意図された「女の映画」の成瀬らしい結末だ。舞台となる家は鎌倉長谷の川端邸を模して作られたセットだそうだ。杉葉子の事務服姿がかわいい。<1月21日>
14.噂の女/溝口健二(1954)
京都島原の遊郭のやり手女将を主人公にした物語。いやらしい女将を演じる田中絹代が上手い。冒頭のオードリー・ヘップバーンのイメージで旧家の土間に現れる久我美子の姿が印象的だ。そのモダンな娘が男に裏切られたことをきっかけに、嫌悪する遊郭を継ぐことになるという展開は皮肉極まりない。二重三重の襖を介した座敷の奥行き、段差のある大空間に太夫や賄いたちが縦横に行き交うシーンなど、日本家屋の空間特性が見事に捉えられている。お呼びのかかった太夫たちが「あてらのようなもん、いつになったらないようになんねやろ。後から後から、なんぼでもできてくんねんなぁ」との台詞とともに、三枚歯の高下駄を内八文字で運びながら、座敷へ出向いていくところをワンシーンで撮ったラストは主題が見事に映像化された傑出したシーンだ。<1月22日>
15.新幹線大爆破/佐藤純弥(1975)
パニックものの名作。犯人の町工場を倒産させた社長を高倉健、学生運動家を山本圭が演じる。一難去ってまた一難、さらにその後にもう一難というハラハラ感が持続する展開が見もの。最後の空港での健さんがカッコいい。宇津井健も熱演。さすがに挿入される歌やパニック乗客の描き方が古臭くみえてしまうのはしょうがないか。一方、青山八郎のエレピやスキャットによる音楽はフランス映画のようで全然古びていない。当時、国鉄からは撮影の協力が得られず、すべてセットを使ったそうだ。日本のケチくささ。笑うべし。<1月23日>
16.ある映画監督の生涯/新藤兼人(1975)
師溝口健二の生涯の記録を残そうとする新藤兼人執念の一本。カメラマンだった宮川一夫の証言などを総合すると、庶民派、女の味方、社会派、反封建主義など、すべての見方を超越していえるのは、溝口健二は日本の美しく悲しい絵巻物のなかに生きたかったのだ、ということだろう。白眉は田中絹代の発言。「溝口先生は田中の演じるお千賀(『浪花女』)やお春(『西鶴一代女』)に恋をしていたのだ。二人は先生のストーリーの中で夫婦だった。先生は日常生活ではユーモアがないつまらない人間だった」。<1月26日>
17.ハンナ・アーレント/マルガレーテ・フォン・トロッタ(2013)
ハンア・アーレントが「ニューヨーカー」に寄稿したアイヒマン裁判の傍聴記事をめぐる骨太の一本。アーレントは官吏然としたアイヒマンの姿を見て、真に恐ろしいのは思考を停止した人間の犯す悪であり、それを「悪の凡庸さ」と呼んだ。同時にリスト作りなどで収容所への移送に協力したユダヤ人指導者達も同様に断罪した。裏切り者としてユダヤ人コミュニティから激しく非難され、孤立しながらも、自らの思考を貫き通すアーレントの姿を通じて、観る者に思考すること、考え抜くことの意味を問う。さらにいえば「ユダヤのことを何も分かっていない。だから、裁判も哲学論文にしてしまう」といって最後、アーレントと袂を
分かつ朋友ハンス・ヨナスのいう「感情の回復」(宮台真二)という意味も考える必要がある、という示唆を受ける。<1月27日>
18.ホーリー・モーターズ/レオス・カラックス(2012)
監督自身が登場し、扉を開けた先は映画館という幕開け。主人公ドニ・ラバンの仕事は他人の人生を演じるという象徴的なもの。そして監督の作品と人生が重ねられた数々のエピソードと映像。エンドロールにはカラックスのパートナーだった亡きカテリーナ・ゴルベアの写真が載せられる。カイリー・ミノーグが飛び降り自殺するのは、その死と重なっているのだ。白のリムジンンが駆け抜けるパリの街、廃墟になったサマリタン百貨店とその屋上から望む夜のパリなど詩的映像の数々。倉庫の中をバンドネオンを弾きながら練り歩く長回しのシーンがカッコいい。<1月29日>
19.もうひとりの息子/ロレーヌ・レヴィ(2013)
イスラエル人とパレスチナ人の子供が産院で取り違えられたら?そんな誰もが先を知りたいテーマを描いた意欲作。母親たちの反応は素直で強い。父親二人は複雑。国家や社会を背負っている、いや、背負っていると思い込んでいるからなのだ。「君は僕の人生を生きろ。僕は君の人生を生きる」という台詞の力強いラスト。民族や生まれた国に拘泥するのは、人間としてなんと無意味なことかを静かに語りかけてくる。監督はユダヤ系フランス人。<1月30日>
20.浪華悲歌/溝口健二(1936)
社長の囲まれ者になって父親の借金を返し、株屋への美人局で兄の学費を用立てする山田五十鈴。兄や妹に罵られながらも金の出所は黙して語らない。意地を張り通すのが時代と境遇への最高の復讐だ、とでもいいたげだ。「野良犬や。どないしたらええか、わからへん」と捨て台詞とともに橋の上を去ってゆくトレンチコート姿のラストシーンが忘れがたい。文楽の舞台の人形のドタバタした動きにシンクロするようにホワイエで和服姿の面々が悶着が起こすシーンがおかしい。パンションと称する和風マンション(?)の空間も見どころ。<2月2日>
21.殺しの烙印/鈴木清順(1967)
あまりのわけの分からなさゆえに当時の日活社長の堀久作が激怒。鈴木清順を解雇したことで知られる傑作。米飯の炊ける匂いに恍惚を覚えるパロマガス炊飯器が登場するシーンはいまや伝説的だ。宍戸錠の押しの強さにナイーブさと小心さを隠している屈折したキャラはいま観ても実にカッコいい。ファーストシーンの羽田空港のネオンやモーゼルミリタリーC96にフォーカスするカットなど、コントラストを効かせたモノクロ映像が実にスタイリッシュだ。登場するトーチカは横須賀猿島に残っている旧日本軍の遺構。炎に包まれた人間が走り出てくるシーンは驚く。脚本の具流八郎は鈴木清順や大和屋竺らの名乗っていたグループ。大和屋竺は主題歌の「殺しのブルース」も歌っている。小川万里子の小さなおっぱいがかわいい。英語題名はSTYLE TO KILL。<2月5日>
22.父、帰る/アンドレイ・ズビギャギンツェフ(2003)
不在だった父が帰ってきて息子兄弟を旅に連れ出す。圧倒的な父の存在をみせつけられ、困惑する兄と反抗する弟。帰郷をなじる弟イワンの台詞はまるで『カラマーゾフ兄弟』の審問官の降臨したイエスに対する言葉のようだ。時代を捨象したような抽象性と象徴性に満ちた映像、計算されつくした構図と色彩、父の存在をめぐるミステリアスな雰囲気、ため息がでるようなラドガ湖の風景など、引き込まれること請け合いの稀有な映像体験の一本。最後の父と兄弟の関係性が変容するのは父の役割の完遂なのだろうか。プーチンが絶賛したことでも有名な作品だが、ロシアには厳格な父性の帰還が必要だ、との理解であれば複雑な思いだ。<2月6日>
23.推手/アン・リー(1991)
アメリカで成功している息子と同居する孤独な老父が、徐々に中国人コミュニティに心を開いていく。その孤独の源泉は、アメリカでの生活への馴染めなさ、息子家族との同居への違和感、文革で妻を殺された心の傷、自身の老いなどであろうが、一方で詩作を楽しみ、料理もたしなみ、太極拳の先生でもあるこの元共産党幹部の人物は、かなり知力、体力、生活力が充実した人物として描かれており、孤独の深さがあまり感じられない。「あなたをみていると昔の北京を思い出す」といって台湾出身の女性に参ってしまうのは、文革前の中国にしか故郷はない、という喪失の思いか。<2月7日>
24.シャイン/スコット・ヒックス(1996)
実在のピアニストのデイヴィッド・ヘルフゴッドを主人公にした物語。息子を英才教育しながら自らの手を離れてゆこうとするのを邪魔する父親との確執が見どころ。過干渉、依存ということか。実際は普通の父親だそうだ。演奏はすべて本人によるもので、特にコンクールで最難関曲『ラフマニノフ協奏曲第3番』を弾くシーンは圧巻。精神を病みながらも故郷のオーストラリアで奇跡の復活を遂げる。主演のジェフリー・ラッシュ(アカデミー主演男優賞)もピアノを習っていたそうだ。<8月29日>
25.第七の封印/イングマル・ベルイマン(1957)
ベルイマンがニーチェと格闘する傑作。異教徒の殺戮に厭み、神の沈黙を嘆き、生の意味を求める十字軍の騎士はベルイマンの分身を感じさせるニヒリズムに陥った人間。そして堕落した神学者や鞭打ちの殉教に没入する人びとなどキリスト教に生を捧げたニーチェのいう「受動的ニヒリズム」に犯された人間たちが描かれ、さらには、神を信じない厭世的態度の従者が「能動的ニヒリズム」の萌芽を予感させる存在として描かれる。ベルイマンが救いを見出したのは無邪気で無垢な旅芸人。こうした形而上的テーマが、ロードムービー的ストーリーと徹底的に計算された白黒映像美によって観て普通に観て面白い映画として結実しているところが本作が傑出している所以だ。海辺での死神とのチェス、野原での野いちごとミルクによる幸福な食事風景、丘の上の死神に率いられた死の舞踏など映画史に残るシーンも必見だ。<2月13日>
26.ソルジャー・ボーイ/リチャード・コンプトン(1972)
社会での居場所のなさと一方で社会に溶け込んで何かしなければという焦燥感のような、家族にも周りにも理解されない心の闇を抱えたベトナム帰還兵たちを抑えた語り口で描く。扉を閉ざしたガソリンスタンドにいらだったり、警官に命令されることへの激しい嫌悪など、トラウマの暗い影の描き方が上手い。町の住人を殺戮したあとの「こんな味のタバコは久しぶりだ」という台詞は怖い。『タクシー・ドライバー』(1976)、『ローリング・サンダー』(1977)、『ディアハンター』(1978)に比べると本作がいかに早い時期に作られていたかがわかる。<2月15日>
27.お遊さま/溝口健二(1951)
敬愛するお遊さま(田中絹代)を思いかつ夫のお遊さまへの想いを斟酌して形式的な夫婦に甘んじるお静(音羽信子)。お遊さまに対する愛情、嫉妬、自己犠牲など微妙に感情と表情をコントロールする音羽信子の演技が光る。田中絹代と音羽信子は精神的レズビアンなのだろう。最後、夫が子供を田中絹代に託すのは二人の精神的結びつきを悟ったらだ。前半の京都の風景や日本家屋を捉えた映像は見事だが、後半の東京のわび住まいやお遊さまが嫁いだ邸宅のセットはチャチな感じ。<2月16日>
28.噂の二人/ウィリアム・ワイラー(1961)
原作はリリアン・ヘルマンの処女作『子供の時間』。ダシール・ハメットから聞いたエジンバラの寄宿学校での実話がもとになっている。子供のちょっとした反抗心による嘘が原因で取り返しのつかない悲劇が生まれる。そして子供の嘘が実は深いところで真実を見抜いていたという展開が衝撃的だ。さらには真実を告白するシャーリー・マクレーンの前で今まで本物だと思っていたジェームズ・ガーナーの愛がかすんでみえてしまうという冷徹な描き方も秀逸だ。ラストの葬儀の後、オードリー・ヘップバーンが周りを黙殺し毅然と歩き去る姿はすべての者への批判となっている。<2月17日>
29.クロワッサンで朝食を/イルマル・ラーグ(2012)
故郷を離れパリで老婦人の家政婦を始めるエストニア人の中年女性の人生模様。家政婦役のライネ・マギが好演、頑固な老婦人役のジャンヌ・モローもぴったり。老婦人の孤独や家政婦との確執がもっと描かれると深みが増した。男の魅力が希薄なのも難点。逆にういういしい生活者目線でのパリの映像が意外に新鮮に見えたりするところはどこか得した感じがする。スーパーで買ったクロワッサンに対して「プラスチックを食べさせるつもり」という台詞はエストニアの食の現実をも暗示しているのだろう。ココ・シャネル所有だったコロマンデル屏風が登場してびっくり。もちろん衣装もすべてシャネル。<2月20日>
30.ナショナル・ギャラリー 英国の秘宝/フレデリック・ワイズマン(2014)
ナショナル・ギャラリーの元になったのはロイズ保険の関係者のコレクション。学芸員はそれをこう説明する。「このコレクションの元は奴隷制に加担したイギリスの恥の歴史から始まっており、それを忘れてはいけない」と。絵画もさることながらこうした学芸員の説明がひとりひとり個性的ですばらしい。ドキュメンタリーの巨匠ワイズマンはナレーション、音楽、インタヴューなどを一切を排して「見る」ことに徹する。常設展が無料というのはさすがだ。<2月21日>
31.狩人の夜/チャールズ・ロートン(1955)
犯罪サスペンスとオカルトホラーと宗教モラルの寓話とが渾然となったモチーフ、リアリティとおとぎばなしがミックスになったような語り口など、ジャンルを超越した稀有な作風の一本。幻想的なモノクロ映像も強い印象を残す。女を淫らなものとして嫌悪し、左右の指に彫られたLOVEとHATEの刺青を使った説教で女性の信心を集めながら殺人を重ねるニセ牧師ロバート・ミッチャムが怖い。「主の御身に頼れ」といつも賛美歌を歌っているのも不気味さを感じさせる。後世に多大な影響を与えた作品だが、公開時は大コケし、チャールズ・ロートンは二度と映画を撮らなかった。<2月21日>
32.殺しの分け前 ポイント・ブランク/ジョン・ブアマン(1967)
とにかく冒頭から時制が錯綜し状況説明もほとんどないため、主人公リー・マービンがいま何をやっているのかわけがわからないまま進む。やたらと多いフラッシュバック、ところどころで放心状態になる主人公など、徐々に白昼夢のような不思議な雰囲気に魅入られるのがこの作品の魅力。さらに驚くべきことは、金の分け前を要求して復讐しているにもかかわらず、主人公は誰一人殺さず、金も一向に受け取らないこと。ナローラペル、ライトウエイトの生地、段がえりのスーツにベルトレスのトラウザースとショートポイントカラーのシャツなどミニマルアイビーのリー・マービンのファッションが決まっている。かたやニットのミニのワンピースにローヒールのバックストラップ先丸パンプスのアンジー・ディッキンソンのキュートな色っぽいさもも注目。原作はリチャード・スタークの『悪党パーカー』。<2月23日>
33.オールド・ボーイ/スパイク・リー(2013)
パク・チャヌク監督の2003年の同名作品のリメイク。ラストの納まりはこちらの方がきれいかも。一方、ハリウッド版は仕掛けが大きくなった分、偶然に頼っているところの不自然さが逆に目立ってきてしまう感あり。また韓国版では棒切れでの乱闘も違和感がなく、むしろユーモリスティックに見える効果もあるが、ハリウッド版では何で銃を使わないの?という風に見えてしまうのもマイナス。<9月14日>
34.ミルク/セミフ・カプランオール(2008)
ユスフ三部作の青年期を語る一作。ミルクが炊かれて上に逆さに宙吊りにされた女の口から蛇が吐き出される冒頭シーンでいきなり物語りの世界に引き込まれる。ちなみに多産の蛇は男や妊娠の象徴だ。ゆったりとした進行、淡々とした語り口、説明の省略、風景や空間の空ショット、計算された構図など小津安二郎を思わせる。鉱山で働くユスフの顔のアップとヘルメットのライトのハレーションを行きつ戻りつする長回しのラストカットは家を出たユスフの不安感と焦燥感を象徴しているかのようだ。<9月15日>
35.京化粧/大庭秀雄(1961)
東京から来た作家と京都の花街の芸妓、世界の違う男女の悲恋物語。山本富士子の行方を追って京都の町を捜し歩く佐田啓二はまるで、京都の町から拒絶されているかのようだ。美しい娘を売って生計を立ててゆくことが当たり前という感覚、本音は決して表に出さない物腰、やんわりと示される拒絶の態度、など母親役の浪花千栄子の演技が圧巻。<2月28日>
36.チェンジリング/ピータ・メダック(1979)
不幸にして亡くなった子供の怨霊を鎮めるべく真相究明にジョージ・C・スコットが奮闘する。彼も直前に妻子を失った失意の人物であるという設定が物語の影を深くしている。謎が割りと早い時期に明らかになるため先の読めないサスペンス感は少ないが、逆に強い怨念の背景には父親に手をかけられたという子供の悲惨な境遇があることがわかり共感を呼ぶ。古い屋敷の屋根裏部屋、亡くなったはずの娘のボール、古い子供用の車椅子などちょっとした小道具が怖いのも上手い。<3月1日>
37.波影/豊田四郎(1965)
福井県小浜の三丁目遊郭の気立てのいい女郎雛千代の生涯を描く。戦下の時代、同居する兄夫婦の困窮から自ら女郎となった雛千代。そんな不幸の影を微塵も感じさせない無垢な存在を若尾文子が演じる。そのけなげさ、あっけらかんとした色気が逆に哀れを誘う。女郎屋の女将でありかつ雛千代を慕う兄妹の母でもあるという矛盾する役どころを演じる音羽信子もすばらしい。冒頭とラストの小浜湾を渡る舟をロングで捉えたシーンなど光と影のモノクロ映像が美しい。撮影は岡崎宏三。芥川也寸志の情感あふれる音楽も特筆できる。原作は水上勉。<3月3日>
38.アバウト・シュミット/アレクサンダー・ペイン(2002)
定年を機に、妻との死別、娘の離反と結婚など孤独が深まる中年男の人生。男は、いつも自信を持てず、どこか空虚な心持で、孤独な自分を隠す仮面と波風を立てない取り繕いで生きてきた。ジャック・ニコルソンの抑えた演技が光る。男は何気なくアフリカの6歳の少年の里親になり、彼への手紙の中だけは本心を正直に語るようになる。失意の男が流す涙が文句なしの感動を与えるラスト。白々しい建前だけの定年退職のパーティーや娘の結婚相手の家族と一緒の食卓など、気まずい空気感や微妙な違和感を描くシーンが秀逸。食卓のシーンは『ファイブ・イージー・ピーセズ』へのオマージュだ。<3月3日>
39.昔々、アナトリアで/ヌリ・ビルゲ・ジェイラン(2011)
殺人事件の遺体捜査隊の一行を乗せた車が夜のアナトリアの高原を走る。警部、検視医、検事など全員が何かを抱え、何かを口にする。光と闇のなか浮かび上がる男たちの人生。検死医はヘッドライトの光で黄金に輝く草原を見つめ、こんな詩を引用する「なおも時は過ぎ、私の痕跡は失せる。闇と冷気が疲れた魂を包むだろう」。まるでアナトリアの自然によって生きることの無常感や虚無感が誘い出されたかのようなスリリングな映像は目が離せない。シネスコープのワイド画面が切り取るアナトリア高原の映像がすばらしい。アンバーに沈む草原、ヘッドライトに映し出される顔、焚き火が照らす幻想的なシーンなど、前半1時間20分が費やされる夜のシーンに唸らされる。<3月4日>
40.蜂蜜/セミフ・カプランオール(2010)
ユスフ三部作の幼年期を語る一作。6歳のユスフと養蜂を営む父との交流を神秘的な山間や森を舞台に描く。靄に煙る山、木漏れ日が舞う森、樹上の採蜜などの映像が美しい。吃音が原因で小さな声でしかしゃべらないユスフ、寡黙な父、静寂が支配する山の中の日常など、音楽を一切排し、最小限の台詞とともに展開する静的な世界観が強い印象を残す。森から戻らない父を案ずる母を思い、嫌いだったミルクを飲み干すユスフがけなげだ。父の死を知ったユスフがフクロウに誘われるように森に入り、大木の根元で眠りに落ちるラストは象徴的だ。<3月5日>
41.親切なクムジャさん/パク・チャヌク(2005)
復讐三部作の第三作目。復讐に協力させるために周囲に親切な人物と思わせる用意周到な殺意と深い怨念を抱く女クムジャをイ・ヨンエが演じる。極悪非道の男パク先生はチェ・ミンシク。前半と後半で演出のトーンが変わり、イ・ヨンエの性格づけも変化し、やや戸惑うが、これもイ・ヨンエの別の魅力を見せる計算なのだろう。後半のオリエント急行方式で復讐に至るプロセスは当事者にとっては深刻な状況を引いて見た時の滑稽さが良く現れており面白い。クムジャがパク先生を殺すのをためらうのは、娘がパク先生の子供で、両親ふたりともが殺人犯になることを避けたかったからだろう。食卓でのセックスと いうグロテスクな映像ヴィヴァルディの優美な調べがに妙にマッチしていた。<3月6日>
42.処女の泉/イングマル・ベルイマン(1960)
罪に対する神の沈黙というテーマ。レイプされ死に至った娘の復讐をする父。復讐の前に清めるためにマックス・フォン・シドーが台地の一本の木を折り倒すシーン、じっくり見せる室内での復讐劇など、光と影による緊迫した映像が素晴らしい。「神よ、なぜです。見ておられたはすだ。罪なき子の死と私の復讐を。だが、黙っておられた。なぜなのです」と問いながらも、同時に自らの復讐の罪を神に許しを請う姿は、ニーチェ的な意味でのキリスト教の起源を意味しているのか。<3月7日>
43.素敵な歌と舟はゆく/オタール・イオセリアーニ(1992)
ひょうひょうとしたボヘミアンのような息子、酒と射撃と犬にふける父親(監督自身が演じる)、セレブな母親、悠々とした髭の哲学浮浪者など、パリを舞台にさまざまな人生を交差させながら描く。犯罪、失業、若者の困難さなども視野に収めた冷徹な眼差しが突き放した都会の詩情とでもいうべき独特の情感を生んでいる。「一杯の葡萄酒の中に真実がある」とは監督の言葉。原題は「雌牛どもの床よさらば」(昔の船乗りたちの言い回しで「息苦しい地上よさらば」という意)の言葉通りのラストが幸せとは?自由とは?を考えさせる。<3月9日>
44.赤線玉の井 ぬけられます/神代辰巳(1974)
いま改めて観ると日活ロマンポルノは本当にロマンチックだったのだとしみじみわかる。ヒロポン中毒のやくざに入れあげる宮下順子、かたぎの客と結婚するも夫のセックスに満足できずに舞い戻る芹明香、一日で26人の客という記録を破るべく奮闘する丘奈保美など玉の井の娼婦の群像劇。ユートピアのような哀しくも幸せな日々が描かれる。街としての玉の井はほとんど描かれず、それを期待するとがっかりする。<3月10日>
45.ブラック・サンデー/ジョン・フランケンハイマー(1977)
パレスチナのテロリスト「黒い九月」とベトナム帰還兵が手を組んでスーパーボウルでテロを計画する。対するはモサドの情報員とFBIというすごい布陣。緻密な設定、意外性のある展開、淡々としたタッチなど見応えのある一本。家族が殺され悲惨な境遇で育った理想肌の美人テロリスト、殺し合いに倦んだ影のあるモサド情報員(ロバート・ショウ)、捕虜体験のトラウマが祖国からの冷遇に対する復讐へと向かわせるベトナム帰還兵(ブルース・ダーン)など人物像の設定が秀逸。プラスチック爆弾が仕掛けられた巨大飛行船がスタジアムに落ちかけてパニックになるところは、いま観てもすごい迫力。<3月10日>
46.ル・コルビュジエの家/ガストン・デュプラット、マリアノ・コーン(2009)
隣家の男が突然、壁に穴を開けてこちらに向けた窓を作り始める。レオナルドは法律を盾にとって抗議するが隣人のヴィクトルはのらりくらりとした態度で穴は一向に塞がらない。強面のいかがわしいヴィクトルと成功したデザイナー レオナルドの二人の本当の性格や本心が徐々に明らかにされながら、物語はシュールでブラックな展開をみせてゆく。レオナルドの住む豪邸がブエノスアイレスにあるル・コルビュジエの名住宅クルチェット邸。人は建築ほどオープンにもフランクにもなれないと物語っているようだ。その名作住宅をうまく使った意外なラストは怖い。<3月12日>
47.ビッグ・リボウスキ/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン(1998)
『ビッグ・スリープ』をもじった題名の通り、チャンドラーの世界観を90年代スタイルで再創造する。ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』と通底するテーマだが、こちらは時代から降りた迎合しない生き方へのオマージュが素直に前面にでている。全然カッコつけていないとろが断然カッコいいというジェフ・ブリッジェスの演技がいい。ベトナム帰りですぐ切れる強面ジョン・グッドマン、いつも話が遮られる覇気のないサーファー スティーブ・ブシュミのトリオが実にいい味を醸し出している。イーグルス嫌いのCCR好き(”Lookin’Out My Back Door” が流れるシーンが実におかしい)という設定や『ホテル・カリフォルニア』はジプシー・キングのバージョンが流れる、というひねり具合も最高。ハードボイルドのお約束としてロサンゼルスの街が魅力的に描かれる。ラストタイトルで“Viva Las Vegas”が流れるのはアルトマンへのオマージュだ。 <3月14日>
48.薄氷の殺人/ディアオ・イーナン(2014)
元刑事のやさぐれた男がバラバラ死体の殺人事件の真相を追う。浮かび上がってくるひとりの未亡人。身を刺すような寒さの中国北部の都市が光と闇のなかで描かれる。『第三の男』で描かれたウイーンのように。人工照明の下の突発的に起こる銃撃シーン、まばらな街灯が灯る雪道、5年後にジャンプカットする雪のトンネルのシーン、鉄橋の上の黄色い照明、観覧車でのセックスシーンなど印象的な映像。最後に派手に打ち上げられる花火にかすかに微笑む女。男の屈折した想いを察したかのようだ。グイ・ルンメイが見事なファムファタルを演じる。<3月15日>
49.月曜日に乾杯/オタール・イオセリアーニ(2002)
決まりきった日常にふと嫌気がさす時はないか?フランスの田舎に住む溶接工は月曜の朝、職場に行かず野原に横たわり、その後ヴェニスへと旅立つ。親しくなった人のいいイタリアの友人たちとの飲んで歌っての宴会シーンが実に楽しそう。究極の幸せはコンヴィヴィアリテconvivialiteというわけだ。そのイタリアの友人が月曜日に仕事に向かう先が同じような工場だったという現実。最後、主人公はもとの鞘に納まる。ここではないどこかなどないのだよ、というラストの味わいは思いのほか苦い。ジャック・ビドウが疲れた中年男を演じてなかなか。『素敵な歌と舟はゆく』の哲学浮浪者役のアミラン・アミラナシュヴィ
リがコサック兵たちの酒盛りでまた自慢の喉を聞かせてくれるのも嬉しい。シニカルな問題意識、ユーモアを交えた語り口、淡々とした表現、要所で挿入される宴会シーンなどがじんわりとした幸せ感をもたらしてくれるというイオセリアーニ節が存分に楽しめる。移動する対象を捉えているカメラが別の移動する対象へとパンしてながら、新たな挿話が始まるというカメラワークも一見の価値あり。<3月19日>
50.母たちの村/ウスマン・センベーヌ(2004)
アフリカに古代から続くいわゆる女性割礼という習慣の実態は、女性性器の切除(FGM=Female Genital Mutilation)のことなのだそうだ。それは宗教的な意味など皆無の女性支配のための因習であり、切除の際に命を危険にさらすだけでなく、その後の排尿、生理、性生活、出産に多大な苦痛を与えるという痛ましいものだ。本作は、男性支配や知識や情報の独占の構図などを絡めながら、FGMから逃れてきた少女たちを守る主人公コレの勇気とついに立ち上がる村の女たちを描く。背景として描かれるアフリカの自然、衣装、日常生活などが新鮮だ。セナガル出身の監督はアフリカの人びとに映像で訴えたいということで40歳から映画を志した「アフリカ映画の父」と呼ばれる巨匠。<3月21日>
51.復讐者に憐れみを/パク・チャヌク(2002)
復讐三部作の第一作目。工場で働きながら姉の腎臓手術の費用を稼ぐ聴覚障害の主人公の男(シン・ハギュン)、誘拐をそそのかす左翼思想の恋人(ペ・ドゥナ)、誘拐される息子の父親で高卒の叩き上げの電気会社の社長(ソン・ガンホ)、臓器密売団などひと癖もふた癖もある登場人物たち。偶然がきかっけで歯車が狂い「いい人」が復讐鬼に変貌してゆく。殺人、自殺、溺死、解剖、拷問、火葬、惨殺など流血・残虐シーンの数々。韓国映画におけるこのストレートさと痛さの表現は一体どこからくるのか?川で溺れる人質の子供とその叫び声に気がつかない聾唖の主人公を捉えた残酷極まりないカットは脳裏から離れない。<3月22日>
52.スリー・モンキーズ/ヌリ・ビルゲ・ジェイラン(2008)
日常によくある題材をきっかけに緊迫した世界と息詰まるようなドラマを創り上げる手腕に文句なく脱帽させられる。それぞれに取り返しのつかないことを犯してしまう夫と妻と子供。セピア調の沈んだ色調、緑がかった画面、光と影のきついコントラスト、独特のカットのつなぎ、表情のアップを長回しで捉える執拗なカメラ、極端に刈り込まれた台詞と音楽などが静謐で強烈な印象を残す。陰鬱な曇り空、逆光に光る海面、深い闇など、まるで生きもののような息づかいが感じられる風景描写も見事だ。見終わった後、そういえば誰にでも「見ざる言わざる聞かざる」でしか耐えられない関係性や出来事があると思い至らされ、いつまでも重い余韻が消え去らない。<3月23日>
53.あの娘と自転車に乗って/アクタン・アブディカリコフ(1998)
ソ連崩壊後のキルギス共和国初の長編映画。監督の分身である少年を描いた素朴でみずみずしい一作。鮮やから織物の映像から一転してモノクロに切り替わる冒頭など独自の映像表現も見られる。好きな娘と抱き合って乗れるように自転車の荷台はずすシーンがほほえましい。<3月24日>
54.旅立ちの汽笛/アクタン・アブディカリコフ(2001)
兵役を前にした思春期の青年の微妙な心のゆれや不安が描かれるタイトルどおりの物語。キルギスの風景が妙になつかしい。エピソードの素描に留まる分、個々の印象は薄いが、青春の思い出とは意外にそんな感じが近いのかもしれない。最後に太った娼婦ジーナ(まるでフェリーニだ)の家が火事で焼け落ちるのは青春の終わりを象徴しているかのようだ。<3月24日>
55.チェイサー/ナ・ホンジン(2008)
デリヘル嬢が次々と失踪する。謎を追う元刑事のデリヘル経営者が失踪した女の娘を預かることになる。中年男と生意気な少女のコンビは『レオン』などの定石どおり感情移入を誘う。女を商品としか思わないやくざまがいの男が徐々に変貌していくプロセスを演じるキム・ユンソクが上手い。早々と犯人(ハ・ジュンウ)を明らかにしながら、その後の展開がだれないのも見事。相変わらず暴力描写がすさまじい。銃器は一切、登場せず、凶器はハンマー、のみ、ゴルフクラブ、スコップなどすべて鈍器というところが痛くかつ陰惨だ。これも相変わらずだが警察があまりにも無能すぎるのが玉にキズ。路地と坂道が錯綜する薄暗い夜の住宅街(どこだろう?)での追跡劇が見ものだ。<3月27日>
56.シティ・オブ・ゴッド/フェルナンド・メイレレス(2002)
リオディジャネイロのスラム街ファヴェーラを舞台したストリートチルドレンと呼ばれるギャングたちの実話に基づく群像劇。祭りの準備で鶏がさばかれゆく。そこから逃げ出した一羽の鶏を追うカメラ。スピード感あふれる編集にブラジル音楽のリズムがかぶさる秀逸なオープニング。この調子で全編スタイリッシュな映像ですさんだ暴力の世界が描かれる。人を虫けらのように平気で殺すリトル・ゼと呼ばれる暴力しか知らないひとりの少年の生と死から浮かび上がってくるのはファヴェーラに生まれたゆえのどうしようもないひとの運命の残酷さのようなもの。新たなリトル・ゼの誕生を予感させて幕は閉じる。<3月29日>
57.哀しき獣/ナ・ホンジン(2010)
失業と博打の借金で首が回らなくなっている中国の朝鮮自治区に住む男(ハ・ジョンウ)が朝鮮族のボス(キム・ユンソク)から韓国での殺人を請け負う。殺人の当日、同じ対象を狙う別の殺し屋とバッティングすることになり、事態は思いもよらぬ方向へと展開する。数々の見せ場と最後までテンションが落ちない脚本と演出がすばらしい。証拠を消そうと韓国に出張ってくるキム・ユンソクがすごい。その暴れぶり、野蛮さ、恐るべきバイタリティなど、あまりのすごさに思わず笑ってしまうほどの屈指の悪役ぶりだ。斧、牛刀、ドライバー、ハンマー、巨大レンチなど登場する素朴な凶器が怖い。極めつけは食ったばかりの巨大な牛の骨で殴り殺すシーン。止むに止まれず悪に手を染める、裏のある依頼とはめられる主人公、淡々と描かれる仕事のプロセス、何かを探して都市を歩き回る、女の裏切り、真相は明らかになるが何も解決しないやり切れなさ、など定石通りのハードボイルドぶりもうれしい。ハ・ジュンウが殺人の下見の際に深夜のファミマで食べるカップラーメンとソーセージは、慣れない街での孤独な男の心情を映し出していて思わず涙と涎が出そうだった。何故、ハ・ジュンウは自分をはめた人物を殺さなかったのか?女に騙されるのはもうやり切れない、ということか。さらにもうひと捻りあるラストも必見。<4月3日>
58.ヴェラクルス/ロバート・アルドリッチ(1954)
ナポレオン三世がメキシコに介入したフランス干渉戦争を舞台にした西部劇。賞金目当てのアメリカ人二人に両親殺しのならず者バート・ランカスターと南北戦争ですべてを失った元南軍将校ゲーリー・クーパー。港町ヴェラクルスへ向かうフランス伯爵夫人の護衛を請け負った二人と馬車に隠された政府軍の金貨を巡りさまざまな思惑が絡む展開が見どころ。最後、決闘に勝ったゲーリー・クーパーがバート・ランカスターの拳銃の重さを計るような仕草をして苦々しげな表情をみせるのは、終始、金貨を独り占めしようとするかに振舞っていたバート・ランカスターの真の思惑を知ったからだ。バート・ランカスターが拳銃をホルスターに納める伝説的な拳銃捌きは宍戸錠のお手本なのだそうだ。<4月4日>
59.僕の村は戦場だった/アンドレ・タルコフスキー(1962)
タルコフスキーの長編処女作。戦争をテーマにした映画ながら、戦闘シーンはほとんど描かず、戦闘の合間に訪れる静寂や疲れきった人びとの表情などを中心に戦争の現実を描く。生命を象徴するモチーフ(雨、蝶、郭公、林檎を食む馬、夏、桶の水、海辺、裸、夏、兄弟の疾走etc.)と死を暗示するモチーフ(雪、地下、冷たい水、暗い水面、重い軍服、浅い眠り、照明弾etc.)を対峙させた映像は、いま観ても鮮烈さを失っていない。ベルリン陥落後、ゲッペルスと家族が自殺した焼死体の実写などとともに主人子イワンの処刑を暗示的に語るシーンは逆に強い印象を残す。<11月2日>
60.無言歌/ワン・ビン(2010)
批判を容認した百花斉放政策の下で共産党批判をした知識人を突然の政策転換により右派と呼び弾圧した毛沢東。再教育の名目で砂漠の収容所に監禁された批判分子の地獄のような実態を描く。夫の遺体を掘り起こした妻の慟哭が夜明けのゴビ砂漠に響き渡る。闇の深さが際立つ光、人間の愚かさを浮かび上がらせるように広がる砂漠の地平線など心をつかむ映像美。中国本土では未だ上映は禁止されているそうだ。この映画が上映できるようになってはじめて中国は民主的な普通の国と呼べる。ドキュメンタリーのワン・ビンの初の長編劇映画。<4月6日>
61.卵/セミフ・カプランオール(2007)
ユスフ三部作青年期を語る一作。母の死をきっかけに何年も帰っていない故郷に帰るユスフ。母の面倒をみていた女性への淡い好意、母が望んでいた羊の生贄を捧げるための旅、旧友との出会い、昔の恋人への嫌悪の表明など、ユスフが住む都会イスタンブールとは微妙に異なる故郷の時空が暗示的に描かれる。帰途、犬に襲われたことがきっかで癲癇の発作が起こるユスフ。意識が戻り、嗚咽する姿には越し方の人生や望郷の複雑な思いが込められているかのようだ。<4月7日>
62.アメリカの影/ジョン・カサヴェテス(1959)
16mmで撮られた本作はカサベテスの処女作にしてNYインディーズの元祖たる伝説的傑作。出演者はすべて新人で入念な打ち合わせの上での台本なしの即興演技によるものだそうだ。50年代のNYを舞台に黒人差別問題を絡めながら、自由に生きることを希求する若者たちをみずみずしいタッチで描く。ベン・カザレスのサングラス、革ジャン、短いトラウザースで長身の背を丸めるようにしてNYをたむろする姿にしびれる。白人のカサベテスが黒人芸人を主人公に描くほど黒人ジャスは当時の最先端だった。ちなみに『カインド・オブ・ブルー』も同年だ。モノクロのNYの街並みにチャールズ・ミンガスのジャズが流れる。それだけでも見る価値あり。<4月9日>
63.断崖/アルフレッド・ヒッチコック(1941)
一度疑い始めるとこれまでのすべてのことが怪しく思えてくる、という心理劇。平気な顔で嘘をつく、調子がいい、容姿に自信があり他人のことなど気にかけない自分中心の態度、自分の都合だけで物事を進める身勝手さ、などケーリー・グラントの本来持っている、隙がなさすぎる胡散くささみたいなものが実によく活かされている。ケーリー・グラントがミルクを持って階段を上がる有名なシーン。ミルクの白さを強調するために豆電球を仕込んだのだとか。今観ても充分怖い。ヒッチコックは当初、もっと両義的な解釈が可能なラストを予定していたそうだ。<4月10日>
64.特攻サンダーボルト作戦/アーヴィング・カーシュナー(1977)
76年7月4日ウガンダ エンテベ空港でハイジャックによる人質をイスラエル軍特殊部隊が電撃作戦によって救出した実話にもとづいた作品。わずか50分で100人近い人質を他国の領土で救出したという前代未聞の作戦だ。親アラブの日本では当時公開が見送られたといういわくつき。司令官役はチャールズ・ブロンソン。作戦に赴く兵士たちのナーバスな姿がリアル。UZIサブマシンガンのセレクタスイッチをセミオートに倒し、ストックを伸ばし、リアサイトを起こしてから、振り向きざまに人質の中のテロリストを一発必中で撃つシーンなど、銃器の扱いも芸が細かい。<4月12日>
65.フェイシズ/ジョン・カサヴェテス(1968)
なんと生々しい感情のほとばしり、なんというテンション、なんとスタイリッシュな映像。ハリウッドを干されたカサヴェテスが自宅を抵当に入れ、映画出演のギャラをすべてつぎ込んで製作した入魂の一作。この映画からインデペンデント映画が始まった。中年夫婦の倦怠と欺瞞と破綻の結末を一日半で描く。動きを追うハンディカメラ、クローズアップされた顔、フレームアウトする被写体、自由なアングルなど、物語以上に映像そのものが抑圧された男と女の姿をリアルに映し出す。<4月18日>
66.東京画/ヴィム・ヴェンダース(1985)
小津安二郎へのオマージュとして作られた作品。小津の『東京物語』がすでに喪失と崩壊の物語だったように、移ろい続ける当時の東京が切り取られる。ただし、東京タワー、ゴールデン街、パチンコ、ゴルフ練習場、タケノコ族、食品サンプルなど、その映像は日本人にとってはさほど面白くない。ヴィム・ヴェンダースは初めての東京だったのだろう。笠智衆や原田雄春への割りと長いインタヴューが貴重。<4月19日>
67.こわれゆく女/ジョン・カサヴェテス(1974)
よき夫とよき父親、あるいはよき妻とよき母親、そしてよき友人であろうとすることからくる脅迫観念に囚われた夫婦を描く。妻役のジーナ・ローランズの演技が圧巻。母親に子供を預けるハイなシーン、夫の同僚をもてなすシーン、隣人の子供を預かるシーンなど、かすかな狂気が芽生え始めていることを暗示する演技が見もの。強引に徹夜明けの同僚を家に連れてくる、無理やり子供を海に連れ出す、妻の退院祝いに場違いなパーティーを催すなど、夫ピーター・フォークもまた別の脅迫観念に取りつかれているのだ。生々しい人間が迫ってくる映像はカサヴェテスならでは。舞台となる家はカサヴェテスの自宅。本作も自宅を抵当に入れ、ピーター・フォークは『刑事コロンボ』のギャラをつぎ込んで作られた。<4月21日>
68.三姉妹~雲南の子/ワン・ビン(2013)
中国でも最貧の地域。標高が高く生計はじゃがいもと家畜しかない。母は失踪し父は出稼ぎに赴く。妹弟の面倒をみながら生活を支える長女。水はけが悪く泥だらけの長靴と乾くことのない足、風呂もなく髪を洗うこともない、妹のシラミ取り、ただ蒸しただけのじゃがいもの食事、羊の世話で勉強もままならないなど、スマホを持っている子供もいる一方で、生活の基本は中世的レベルに留まっているという恐るべきまだら模様の現実に衝撃を受ける。過酷な環境と孤独にめげずに淡々と生きる少女の姿が胸を打つ。少女の思いとはなんの関係ないそんな感想は一体なにになるというのか。なんという矛盾。絶対的不幸ということはあるのか。<4月23日>
69.荒野の用心棒/セルジオ・レオーネ(1964)
マカロニ・ウエスタンが世界的に大ヒットするきっかけになった作品。黒澤明の『用心棒』の非公式リメイクでもある。クリント・イーストウッドの用心棒は三船敏郎に比べると寡黙でぶっきらぼうな男として描かれる。敵が撃たれて倒れるシーンで、カメラが撃たれた人物の視点となり、画面がぐらりと揺れて太陽を仰ぎ、そのあと地面を映すカメラワークはいま観ても新鮮だ。傑作「さすらいの口笛」をはじめ音楽はエンニオ・モリコーネ。<4月26日>
70.オープニングナイト/ジョン・カサヴェテス(1978)
老いる女を演ずる中年にさしかかった女優。ふとした若さの発露を目にし、自らの老いとその枠にはめられることへの違和感を感じ始める。女の老いと若さをおのずと浮き彫りにするようなクローズアップによる映像。劇中でジーナ・ローランンズとジョン・カサヴェテスが夫婦役を演じ、アドリブによって作品を換骨奪胎してしまうのは、俳優は劇作家や演出家に意図どおりに演技するものだということへの、カサヴェテスがかねてから抱いている疑問や反発が込められている。そのアドリブ劇がNYの初日で大好評となって大円団となるが、そんなに上手くいくのかいな?という気がしなくもない。<4月28日>
71.居酒屋兆治/降幡節男(1983)
高倉健というよりは大原麗子の映画。とにかく壊れそうな美しさは必見。もともと大原麗子のひとり相撲がテーマなのだが、それにしてもかつて相思の仲にすら見えないような高倉健の演技は大きなマイナスだ。伊丹十三や田中邦衛などの脇役陣もストーリーの説明役に終始するだけで彼らの人生が立ち現れてきていない。大原麗子が孤独に亡くなったという事実を知ってから観るとその劇中での最期はさらに切ない。<4月30日>
72.続・夕陽のガンマン/セルジオ・レオーネ(1966)
南北戦争を背景にした金貨を巡る賞金稼ぎたちの物語。くんずほぐれつ敵味方が入れ替わりながら進む展開は見応えあり。極端なロングと極端なクローズアップの早い切り替えし、音楽・台詞なしのシーンとコヨテーテの遠吠えを模して作曲されたエンニオ・モリコーネの名曲がかぶさるシーンが交互に繰り返されるなど、緩急をつけた演出はいまや語り草だ。クリント・イーストウッドの左手だけでマッチを擦る仕草や拳銃をバックスピンで2回転させてホルスターに納めるガン捌きにも痺れる。そしてなんといってもリー・ヴァン・クリーフの渋カッコ良さ。<5月1日>
73.破壊!/ピーター・ハイアムズ(1974)
LAPDの風紀課が麻薬組織を追うポリス・ストーリー。演じるのは風船ガムを噛み続けるエリオット・グールドと火を点けない煙草を手放さないロバート・ブレイクのでこぼこコンビ。やる気が感じられない冗談めかした態度の裏に生真面目な使命感を秘めているシャイな都会っ子はエリオット・グールドの真骨頂だ。走ってくる主体をカメラを引きながら移動撮影するスピード感あふれるカメラワーク(トラックバック)は当時のハイアムズの得意技。ステディカムがない時代なので車椅子に乗って撮影したそうだ。腐敗した組織に阻まれ、犯人を追い詰められない無力感。エリオット・グールドのクローズアップに転職の職探しのナレーションがかぶさるラストは苦い。<5月2日>
74.バードマン あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡/アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ(2014)
かつてヒーロー物で人気を博したが今や過去の人になっているハリウッド俳優がブロードウェイの舞台で再起を期す。出演者の多くが役柄と同じ経歴の持ち主だったり、ハリウッド映画と俳優の揶揄、批評家との確執など、ショービズ界への自己言及的作品にもなっている。俳優たちの私生活が劇中劇のレイモンド・カーヴァー原作のストーリーにダブって見えてくるような設定も憎い。もうひとつの見どころはアクロバティックな映像。一部を除き全編がワンシーンで繋がっているように見える撮影と編集が圧巻だ。臨場感あふれるアップを撮っているカメラが突如、全体を俯瞰する視点に宙を泳ぐように移動するカメラワークなどもすごい。撮影はエマニュエル・ルベツキ。三つ目に特筆すべきはアントニオ・サンチェスのドラムによる音楽。登場人物の抑えがたいプリミティブな欲望や感情とシンクロしているかのようだ。<5月3日>
75.白い町で/アラン・タネール(1983)
船乗りのブルーノ・ガンツが日常から逃れリスボンで無為の日々を過ごす。主人公はひたすらリスボンの町を歩き、自らの軌跡と存在を確かめるようにヴィデオを撮り、そのテープをスイスの妻のもとに送る。本当の根無し草になることをどこかで恐れているかのように。そうした漂泊の思いに世界一ふさわしい都市はリスボンだが、テージョ川も4月25日橋もエレクトリコもアルファマの迷宮のような坂道も、画質の悪いヴィデオではあまり魅力的に見えないのが実に残念。<5月3日>
76.白いカラス/ロバート・ベンソン(2003)
大学教授アンソニー・ホプキンスは、意図しない発言が黒人差別だと断罪され解雇される。この肌の白い大学教授は、実は黒人であり、黒人であることを呪い家族を棄て、黒人であることを隠して生きてきた人物だった。ふとしたことで知り合った孤独な女ニコール・キッドマンに惹かれてゆく。彼女も、義父による性的虐待、母親による遺棄、自らの子供を事故で死なせた悔恨、PTSDの元夫によるDVなど、消し去りがたい辛い過去を持つ人物だった。黒人であることを否定した黒人を白人が演じるというデリケートな問題が要因で評価は低く、ほとんど注目されていないのが残念な秀作。フィリップ・ロス原作。<5月4日>
77.イマジン/アンジェイ・ヤキモフスキ(2014)
リスボンの視覚障害者のための診療所に盲目の青年イアンが反響定位訓練の教師としてやってくる。反響定位とは周囲に反響する音を唯一の頼りに歩行すること。リスボンの石畳を歩く音は重要なモチーフとなり、普段なにげなく行っている街を歩くという行為が未知の冒険として立ち現れてくるという構図が見事だ。イアンは失敗もするし、嘘もつく、女の気を引くために小細工を労したりもする普通の男として描かれているところがよい。イアンに心を開く同じ盲目の女性エヴァ。杖を持たずにリスボンの街を歩く二人のサンングラス姿がクールだ。結局、怪我のリスクと裏腹の反響定位は受け入れられず診療所を解雇されるイアン。反発・反抗しながらも新しい世界を垣間見させてくれたイアンを慕う教え子たち。最後、エヴァの目の前に大型客船が現れるのは、現実なのか、幻想なのか。イアンを信じたエヴァのイマジンの力であることは間違いない。光と影のコントラストがきつい修道院の中庭、夜の桟橋、市電が脇を走るカフェ・エレクトリコ(実在する)など、リスボンの街が魅力的だ。<5月6日>
78.蜂の旅人/テオ・アンゲロプロス(1986)
老境の男は教師の職を辞し、家と家族を棄て、父の代から続く養蜂のために「花の道の旅」に出る。人生の晩年において虚無感にとらわれた男をマルチェロ・マストロヤンニが演じる。かつてのパルティザン仲間の老人、ひとりは既に病床にある。あばら家となっている生家。かつてかよった映画館は廃屋となっている。男が追う過去はノスタルジックな優しさとともに時の残酷さをも垣間見せる。「私には過去がない」とうそぶく若い女が「あなたは過去の旅人さん」と喝破する。女との性愛の不全は老いを象徴して残酷極まりない。この頃のマストロヤンニはいるだけで人間の宿命の悲哀を感じさせるような存在感を放っている。エレニ・カラインドルーの音楽が素晴らしい。サックスはヤン・ガルバレイク。<5月7日>
79.ブルー・ジャスミン/ウディ・アレン(2013)
人間の自意識やプライドの地獄が辛らつな笑いとともにさらりと描かれる傑作。夫に愛されている自分というアイデンティティによって自己を確立してきたNYのセレブ妻ケイト・ブランシエット。夫のフランス小娘との浮気がきっかけにそのアイデンティティが崩れパニックに陥る。ひとり立ちを試みるも夫に依存しっぱなしで何もできない自分に気づき、自己の寄る辺なさへの底なしの恐怖を味わう。唯一の息子からも拒否され、自らが愛しているものから自分が愛されていないことに徹底的に気づかされた時、残された道は自己崩壊しかなかった。ブランシエットとは正反対に邪魔なプライドなどははなから持ち合わせておず、男にもゆるい西海岸に住む妹(サリー・ホーキンス)の存在がそのコントラストを際立たせる。東海岸と西海岸の間に横たわる埋めがたい感性の違い、NY住人のプライドの裏に見え隠れするヨーロッパコンプレックス、セレブ生活の過剰なプライドと自己演出の痛々しさなどを、ウディ・アレンらしく微に入り細に入り描くところも見もの。セレブなセンスある自分にふさわしい職業としてインテリアデザイナーを目指すところが実にそれっぽくて笑える。<5月10日>
80.ジャージー・ボーイズ/クリント・イーストウッド(2014)
フォーシズンズを主人公にした評判ミュージカルの映画化。舞台ほどの盛り上がりがないと評されるも映画が初見の目には十分面白い。トッポ・ジージョ風のファルセットというフランキー・ヴァリーの個性が名曲『シェリー』に結実するあたりから俄然面白くなる。ラスト”Sherry”~”Oh What A night!”での出演者全員でのストリートダンスのシーン、そしてエンドロールの再び”Sherry”~”Rag Doll”に至る展開は決まりすぎるほど決まっている。ニヒルな凄みと同時に飄々とした軽さも漂わせる老境のクリスファー・ウォーケン良し。元ダンサーなのでダンスもお手のものだ。メンバーたちが仲間の借金返済を引きうけるシーンはアメリカ人も意外に浪花節なんだと思わず笑みがこぼれる。<5月11日>
81.インヒアレント・ヴァイス/ポール・トーマス・アンダーソン(2014)
トマス・ピンチョンの同名小説(日本語題名は『LAヴァイス』)の映画化。ヒッピー探偵ドックに元カノのシャスタがある依頼を持ち込むことから、ドックは思いもよらない事件に巻き込まれてゆく。ストーリーはぼぼ小説に忠実であり、真面目な顔でコメディタッチという語り口がピンチョン小説の雰囲気をよく表しているなど、P.T.A.のピンチョンへのリスペクトが伝わってくる。ホアキン・フェニックスの虚空を凝視するような目つきがマリファナ常用の探偵のイメージにうってつけだし、ジョシュ・ブローリンやベニチオ・デルトロの濃い存在感もパラノイアックなピンチョンワールドにぴったりだ。昔とは変わってしまったと告白するシャスタとのセックスを長回しで撮るシーンは、あたかも60年代の価値観の終焉をお互いに確認しているかのような、作品のテーマが映像化された優れた映画的表現となっている。ニール・ヤング「ハーベスト」、サム・クック「ホワット・ア・ワンダフルワールド」、チャック・ジャクソン「エニー・デイ・ナウ」などの音楽もいつもながらの決まり具合に脱帽させられる。ドックが羽織っているジャングル・ジャケットがカッコよかった。<5月13日>
82.グランド・ブダペスト・ホテル/ウェス・アンダーソン(2014)
シュテファン・ツヴァイクと彼の作品にインスパイアされた旨がエンドクレジットに記される。全編、飄々とした雰囲気のコメディタッチで描かれるが、通奏しているのは『昨日の世界』の深くて暗い絶望感だ。主人公であるこの名門ホテルの支配人グスタフ(レイフ・ファインズ)は2回目の検問(第二次大戦を象徴している)で殺されてしまう。そしてこのホテルがあったズブロッカ共和国自体がファシストによって消滅させられる。グランド・ブダペスト・ホテルとはツヴァイクなどのユダヤ人も普通に暮らしていた世界の象徴なのだ。いつものカラーや構図にこだわった独特の様式美はヨーロッパを舞台した本作では一層磨きがかけられている。今回のキーカラーは赤、ピンク、紫。<5月16日>
83.欲望/ミケランジェロ・アントニオーニ(1967)
脈絡に欠ける行動、一貫性のない態度、あいまいな言動、夢中になったかと思うとすぐに飽きるむら気など、生きている手ごたえがないまま日常をやり過ごしているカメラマン。たまたま公園で撮った男女の写真に殺人事件の証拠が写っていたことからその事実を探ることにのめり込んでゆく。それは果たして真実だったのか?あるいは自分の写真は真実を捉えたという生の実感を求めたい願望だったのか。証拠を確かめようと極限まで引き伸ばされた(原題はBlow up)写真は、もはやなにものをも意味しないパターンにしか見えないというのは暗示的だ。ジェフ・ベックとジミー・ペイジが在籍中のヤード・バーズの演奏シーンは貴重。音楽はハービー・ハンコック。<5月17日>
84.カプリコン1/ピーター・ハイアムズ(1977)
発射直前の火星有人飛行船に欠陥が判明するも打ち上げ中止による政治的影響を考慮して、ある壮大な国家的陰謀が企てられる。アポロ11号は本当は月に行っていなかったのでは、という噂があるのだそうだが、そうしたネタを元に、ここまでの作品に結実させたハイアムズの構想力は賞讃に値する。内容を知ったNASAが途中で協力を断ったことは有名だ。車のフロントの低い位置に取り付けられたカメラがとらえる迫真の車の暴走シーンやあわやぶつかるかと思わせるようなハラハラさせる複葉機とヘリコプターのエアチェイスのカメラワークなど、撮影もこなすハイアムズならではアクションシーンも必見。ハル・ブルックスが政治の重圧を意識せざる立場に置かれた科学者役を演じて本作にリアリティを付与している。疑惑に気づくさえない新聞記者にエリオット・グールド。ネルシャツにネクタイを締めてエルボウパッチのついたツイードのジャケットという、いか
にもブルックリンあたりのインテリがしそうな、ダサかっこいいアイビースタイルが反骨キャラクターにぴったりだった。ジェリー・ゴールドスミスの音楽も「陰謀感」たっぷり。<5月19日>
85.グロリア/ジョン・カサベテス(1980)
『子連れ狼』がヒントになり『レオン』の元ネタとなった作品。マフィアのボスの情婦だった中年女ジーナ・ローランズがトラブルに巻き込まれた知り合いの男の子を預かってマフィアから逃亡を企てる。なれない子供への戸惑いや中年女の疲れとともに覚悟を決めた女のド迫力を感じさせる当時50歳のジーナ・ローランズ。女も子供も感情を表に出さない描写が、逆に、突然の出来事を整理して考えられない、感情をうまく表現できないほどの現実の重みなどを観る者に感じさせる演出となっている。時折、挿入されるさりげないカット(ネオンに照らされる子供の表情など)が効果を上げている。抑えていた感情がほとばしるラストシーンは、スローモーションが甘くしてしまっており残念。登場するタクシーの運ちゃんが皆本物っぽいなど、マンハッタンやブロンクスやブルックリンなどNYの普通の街や暮らしが生き生きと描かれる。スパニッシュ調も交えた音楽はビル・コンティ。<5月21日>
86.クスクス粒の秘密/アブデラティフ・ケシシュ(2007)
チュニジアからフランスの港町ニースに移り住んでいる一家の家族劇。親しい家族ならではの本音が淡々とかつこれでもかという風にリアルに描かれる。登場する男全員が愛すべきダメ男として描かれるのと対照的に妻や娘や嫁など女たちが発散するすさまじい生のヴァイタリティー。覇気のない父親が始める船上レストランのオープニングの窮地を救うのも女たちだ。迫力のベリーダンズを披露する愛人の義理の娘のむっちとした肉体の生々しさは女たちの生命力を象徴しているようだ。父親は笠智衆で義理の娘は原節子なのだ。<5月21日>
87.夕陽のガンマン/セルジオ・レオーネ(1965)
荒野を馬で駆けている男が撃たれるところを長ロングで撮ったタイトルバックが秀逸。銀行強盗の脱獄犯の一味とそれを追う賞金稼ぎたちの物語り。主人公の無口でクールなクリント・イーストウッドもさることながら、賞金稼ぎを装って殺された妹の敵を探しているリー・ヴァン・クリーフが渋すぎ。どこか陰のある悪役ジャン・マリア・ヴォロンテもいい。二転三転する物語があきさせない。リー・ヴァン・クリーフの長銃身のバントラインスペシャル、イースウッドのウォールナットグリップにシルバーのラトルスネーク(ガラガラ蛇)がインレイされたコルトSAAのアーティアリーモデル、拳銃などの小道具へのこだわりを見るのも楽しい。<5月21日>
88.ダージリン急行/ウェス・アンダーソン(2007)
父の死と母の失踪がきっかけでぎこちなくなっていた三兄弟がインドを旅して母に会いにいくことで過去や親の存在から吹っ切れていく様子がいつものゆるい感じとこだわった映像で描かれる。インドの色彩や風景が美しい。今回のキーカラーはイエロー。インドの異文化に触れて過去が吹っ切られるというストーリーや失踪している母親がヒマラヤで修道士をしているという設定は、外の世界のエキゾティズムに頼った表層的で未消化な感じが否めない。三人の風貌とインドということでビートルズが思い起こされる。<5月26日>
89.リバース・エッジ/ティム・ハンター(1987)
原題は正しく発音するとリバーズ・エッジとなる。そう、本作は岡崎京子の『リバーズ・エッジ』のヒントとなった作品だ。町ははずれに川が流れるアメリカ中西部の町。主人公のジョンが川べりで高校の女友達を殺してしまう。平然としているジョンと一緒に仲間たちが死体を見に行くが実感がわかず死体はそのまま放置される。キーマンとなる旧世代の殺人者をデニス・ホッパーが演じる。岡崎京子はこの生の実感のなさの実相と原因を掘り下げ『リバーズ・エッジ』に結実させた。<5月29日>
90.カンザス・シティ/ロバート・アルトマン(1996)
レスター・ヤングらが群雄割拠していた1930年代のカンザス・シティのジャズの世界と大統領補佐官婦人の誘拐事件を平行して描く群像劇。曲者俳優たちの演技が見者だ。特に誘拐されるアヘンチンキ中毒の大統領補佐官婦人を演じたミランダ・リチャードソンの醸し出す無気力な退廃は圧巻だ。主人公のジェニファー・ジェイソン・リーは『コンバット』のサンダース軍曹ことヴィック・モローの娘だそうだ。そういえば似てる。最後のどんでん返しのニヒリスティックな味わいと幕切れのロン・カーターとクリスチャン・マクブランドのベースデュオによる『ソリチュード』が流れるなか金勘定にいそしむ街の顔役ハリー・ベラフォンテの姿は実にアルトマン的突き放し方で唸らされる。ちなみにアルトマンはカンザスの出身で幼い頃からジャズに親しんでいたそうだ。<6月1日>
91.エレニの帰郷/テオ・アンゲロプロス(2004)
第二次大戦で難民となり、その後のギリシア内戦によって再び土地から引き離され、家族を奪われてしまうギリシャ女性エレニの悲劇を描く。水没する村、筏での葬送などまさにアンゲロプロスしか想像しえないような映像美が体験できる。廃屋で演奏家たちが迎えてくれるシーン、アコーディオンでテーマ曲を披露するシーン、埠頭でのワルツ、白い布がはためく湖畔での楽隊の行進、労働組合の祭りのシーンなど厳しい現実を生きる糧として音楽が位置づけられている。映像と一体化したエレニ・カラインドルーの音楽が傑出している。反政府活動にかかわったとして投獄され既に正気を失っているエレニは、夫の死の直前の声を聞き、二人の息子の死を見るのだった。水が満ちてくるなか廃屋となった我が家で死んだ息子にすがりつく慟哭のシーン。そこには水没した家を放棄して再び土地を追われるエレニが名残惜しそうに座っていたベッドが朽ち果てた姿で残っているのだった。<6月2日>
92.ザ・ロイヤル・テネンバウムズ/ウェス・アンダーソン(2001)
家族を捨てた元弁護士のロイヤル・テネンバウム(ジーン・ハックマン)が家族の絆を取り戻そうと家に戻ってくる。かつて天才少年少女と呼ばれたが今は問題を抱える子供たちも呼び寄せられる。みんなエゴイスティックでナルシスティックでナイーブでイノセント(鈍感)というのがサリンジャー的だといわれる所以だ。最後披露されるロイヤルが自分で残した墓碑銘も「ロイヤルは沈む軍艦から家族を救い非業の死を遂げた」という自意識過剰なもの。真正面や真上からのショット、無表情な演技、カラフルな色使い、滲み出す滑稽味などウェス・アンダーソンならではこだわりの数々。ジーン・ハックマンが長男の孫を連れ出してゴーカート、乗馬、万引き、闘犬、ゴミ収集車の外乗りなど悪さを教えるシーンが実に楽しい。バックミュージックがポール・サイモンの「僕とフリオと校庭で」というのも最高!たぶん『卒業』へのオマージュなのだ。<6月4日>
93.私の少女/チョン・ジュリ(2014)
ソウルから左遷されて海辺の小さな村の警察署長として赴任してくるペ・ドゥナ。そこで義理の父親と祖母から虐待を受けている少女キム・セロンと出会い自宅に保護する。ペ・ドゥナは同性愛者だ。祖母の事故死の真相とペ・ドゥナの真意を宙吊りにしながら不穏な空気で物語りは進行する。終始やつれ気味でアルコール依存症による気だるい雰囲気のペ・ドゥナが良い。虐待している父親は過疎化する村で唯一事業を起こしている人物で警察も含め村社会は酒と暴力で憂さを晴らす父親を容認しているという設定もリアルだ。法で割り切れない現実の世界、シロでもないクロでもないグレーな世界。村を出るペ・ドゥナが逡巡の末、少女を連れに戻るラストは、そのグレーを容認して生きることを決した姿を象徴するように曇り空に覆われている。<6月6日>
94.チャイニーズ・ブッキーを殺した男/ジョン・カサベテス(1976)
借金のかたに殺人を強要される場末のストリップクラブのオーナーのベン・ギャザラ。物語は殺人事件をめぐるサスペンスというよりも中年男の生き方に焦点があてられる。困難な状況に出くわして、困った顔を見せながら、汗をかきながら、なんとか状況に対峙しようとするベン・ギャザラの姿がいつしか観る者の心を捉えている。殺しの最中にもクラブに電話を入れて心配するシーン、楽屋で持ち上がった問題に下手なジョークで皆を和ませた諭すシーンなど自らのクラブと舞台に愛情を傾けるベン・ギャザラだが、彼が誇りを感じ、愛し守ろうとするのが場末のストリップクラブとその芝居仲間というのが泣かせる。いくら周りに理解されなくとも自らが信ずるものに愛情を注ぐ男、というのはジョン・カサベテス自身の姿なのだ。説明的な台詞やカット割りではなくて、極端な長回しやクローズアップでその場の空気を描こうとする演出が緊迫感を生んでいる。<6月8日>
95.サイレント・パートナー/ダリル・デューク(1978)
銀行員がふとしたことで銀行強盗の計画を知り一計を案じ、犯人に金が盗まれたことにして大金を手に入れる。金を返せと迫る直情的な犯人(クリストファー・プラマー)とさえないが頭の働く銀行員(エリオット・グールド)の攻防が見どころだ。派手なアクションなどはないが、銀行強盗の計画の存在を見抜くところや騙されたふりをして相手を出し抜く巧妙な手口などスリリングなエピソードの連続で釘付けになる。極めつけは金を返そうと犯人を銀行に呼び寄せ、強盗に仕立てて警備員に射殺させるラスト。脚本は『LAコンフィデンシャル』のカーティス・ヨハンセン。音楽はオスカー・ピーターソン<6月9日>
96.熱波/ミゲル・ゴメス(2012)
第一部「楽園の喪失」は老人、無機的な都市風景、静寂、雨、死で満たされた世界。一転して第二部「楽園」は若者、アフリカの自然、狂気、情熱、生が溢れる世界。半ばぼけた老人が語る驚くべき禁断の恋の物語ははたして真実なのか?あるいはノスタルジックな願望なのか?植民地という「楽園」のタブーをあぶりだすその周到な眼差しは驚嘆させられる。山を被う霧、池に起こるさざなみ、焚き火に照らされた恋人たちの横顔、スコールの中でのピンポン、かやの中の白昼のセックス、まばゆいサファリスーツやセーラールックなど数々の映像美は抗し難い「楽園」の魅力をこれでもかとみせつけてくれる。「ポルトガルだけが60年代まで植民地を持っており、それはポルトガルの政治の狂気に由来する」とは監督の言葉。原題はまさに”Tabu”タブー。<6月11日>
97.ファーゴ/ジュエル・コーエン(1996)
姑息な偽装誘拐があれよあれよという間に陰惨な殺人事件へと発展してしまう。そのストリーテリングの上手さに脱帽。アカデミー脚本賞受賞。おっとりとした一見さえない妊婦警官フランシス・マクドーマンド、口が達者だがちっとも上手くゆかないスティーブ・ブシュミ、義父の会社の金に手を出して行き詰っているウィリアム・H・メイシーなど芸達者な布陣の演技も見ものだ。アメリカの田舎町における素朴な日常の幸福感とグロテスクな殺人事件が対置され、それは実は紙一重の世界であることが暗示される。妊婦警官のもっさりとした動き、厳冬で着膨れた人々の鈍い動作、凍結した路面をのろのろ走る車などサスペンスとは正反対のテンポが独特の雰囲気を醸し出している。<6月15日>
98.エレニの帰郷/テオ・アンゲロプロス(2008)
テオ・アンゲロプロスの遺作。ギリシア内戦で共産勢力が敗北した後、ソ連邦内のカザフスタンのテミルタウで難民となっているエレニ。その後の家族の離散、再会、帰郷への願望が描かれる。いつの間にか政治の季節は終わり、まさに「時の埃」 (原題”Dast of time”)に埋もれてしまったかのように時代に取り残される人びと。エレニの帰郷がかなえられないのは、エレニの思う「故郷」はすでに失われてしまっているからだ。それを象徴するのが両親がナチスに虐殺されたユダヤ人難民のブルーノ・ガンツ。イスラエルに行き難い者にとってはもはや帰る場所はない。覚悟の上の最期が痛ましい。カット割が多くアップやズームが多用される、英語台詞、著名俳優の起用などアンゲロプロスの作品としては異例。東西冷戦、ベトナム戦争、ウォーターゲート事件、ベルリの壁崩壊など戦後の歴史的出来事が語られるが残念ながら深みはない。なにより少女~老年時代のエレニを演じるイレーヌ・ジャコブが、ミシェル・ピコリの妻には見えず、さらにウィレム・デフォーの母親にも見えないのが致命的だ。<6月16日>
99.野いちご/イングマル・ベルイマン(1957)
狷介でエゴイストの老医師イサクが名誉博士号授与式に向かう一日の間に起こる現実と夢の世界のなかで自らの来し方と行く末に対する考え方を再編成して幸せと安寧を得るという物語。人は死を意識した段階で過去に対して再び向かい合う機会を得るのだろうか。イサクの場合は嫁のイングリッド・チューリン(美しい!)の存在と同行する若者3人組のとの交流が大きな影響を与えた。エリク・エリクソンは老境での幸福のためには自らの過去を「統合」することが重要だといっているがはたしてそうなのか?和解、妥協、あゆみより、こだわりの破棄を拒否して死んでゆくことは不幸なのか?<6月19日>
100.友よ、さらばと言おう/フレッド・カヴァイエ(2014)
いつも通り濃いオヤジが登場するフランスの警察もの。元警察官の主人公は酔っ払い運転で死亡事故を起こしたことが原因で警察をクビになり、妻とも離婚している。殺人現場を目撃した息子が犯人一味に狙われることになり、元同僚で友人でもある刑事と組んで犯人を追い詰めるが、その過程の中で思いもかけない事実が明らかになる。市街地で思うようにならない追跡劇やTGVの狭い車内での銃撃戦などがリアルだ。<6月21日>
101.天才マックスの世界/ウェス・アンダーソン(1998)
ウェス・アンダーソンがそのスタイルを確立した愛すべき名作。19ものクラブ活動に夢中で高校を退学させられるマックス。同じ高校の仲間、先生、年上の友達たちとの交流を描く。上手く行かないコミュニケーション、自意識過剰、無邪気さ、一途さ、器用貧乏、思いの空回り、若さの身勝手さなど、青春のナイーブさが見事の映像化されている。ダメでも好きなら充分!最後はなんとかなるさ、という勇気をくれるメッセージ。キャット・スティーブンス、キンクス、ジョン・レノンなど画面と見事にシンクロする選曲に脱帽。とくにダンスシーンで「これでなくっちゃと」といってフェイセズの「ウ・ラ・ラ」をDJにリクエストしてエンディングになだれ込むラストは感涙ものだ。床屋の父親役の初老のシーモア・カッセル良し。<6月22日>
102.ジェイコブス・ラダー/エイドリアン・ライン(1990)
人生におけるさまざまな思いとベトナム戦争での悲劇をホラーとサスペンス仕立てにして、さらには生と死をめぐる宗教論的世界観をも絡めながら描いた秀作。後遺症に悩まされているベトナム帰還兵のティム・ロビンス。同じ帰還兵仲間とベトナム戦争で政府によって闘争本能を刺激する薬物が投与されていたという疑惑を探ってゆくが・・・。死んでも死に切れないという思いは、単なる人生の走馬灯を垣間見させるのではなく、自分の生き方への悔恨や断ち切れない思いやかなえたかった願望の数々などをきっとこういう形で呼び寄せるのだと思わず納得させられる。脚本はブルース・ジョエル・ルービン。<6月23日>
103.トリコロール 青の愛/クシュシュトフ・キシェロフスキ(1993)
交通事故で夫と子供を失った女性の悲しみと絶望のその後の人生を描いた作品。主人公の未亡人はジュリエット・ビノシュ。プールでひとりぼんやり浮かんでいるなど、事故の後の何をやっても心の落ち着きどころがない空白の日々の表現はなかなか。共同作曲家だった夫とのEU統合賛歌の交響曲を完成させることによってこころの痛手から立ち直ってゆくという後半がイマイチ。「愛がなければ、愛があれば」と大音量で歌い上げる曲事体がイタい。前半で『鬼火』的あるいはサガン的ニヒリズムの片鱗を感じていたがその後の展開がダメだった。<6月25日>
104.カリフォルニア・ドールズ/ロバート・アルドリッチ(1981)
どさまわりの女子プロレスラーふたりとマネージャー(ピーター・フォーク)がおんぼろ車で巡業するロードムービー。二流だが魂の自由を求めて闘うストイックな女子プロスラーやしょぼくれマネージャーの反骨ぶりなど、題材は女子プロレスだがいつものアルドリッチ節は健在だ。悲壮さが皆無で深刻ぶらない主人公たちが実にいい。最後の盛り上がりも素直に感動できる。あえて女子プロレスというきわもの世界を舞台にその哲学を語ったロバート・アルドリッチ最後の作品。往年のミミ萩原の姿も見られる。<6月26日>
105.ブラッド・シンプル ザ・スリラー/ジョエル・コーエン(1985)
コーエン兄弟のデビュー作。夫が探偵を雇い妻と従業員が浮気をしていることを突き止める。悪態をつかれた妻に腹を立てた夫は探偵にふたりの殺害を依頼するが、探偵の悪知恵で事態は思いもよらない展開になってゆく。即物的な描き方から滲み出るこっけい味、偶然が重なる不条理など、すでにその個性が十分に発揮されている。誤解と疑心暗鬼が行動と不信の連鎖を生んでゆく脚本の上手さに舌を巻く。拳銃に入っていた3発の弾丸の行方など小道具の扱いも上手い。誤解を引っ張ったままなだれ込むラストの対決シーンの映像も実にユニーク。<6月27日>
106.イギリスから来た男/スティーブン・ソダーバーグ(1999)
行方不明になった娘を探しにイギリスからロサンゼルスにやってくる元ギャングの男。テレンス・スタンプのなにを考えているかよくわからない表情はちょっと不気味な外人役にぴったりだ。冒頭のテンポの速いクロスカッティングやフラッシュバックにどうなっているの?と思わず引き込まれる。”My name”を「マイ・ナイム」と発音(コックニーなまり)してイギリス野郎と罵られたり、駐車係Valetを従者と思い込んで相棒のルイス・ガスマンを困惑させるなど原題”The Limey”の通りでおかしい。アメリカ側の悪役ヘンリー・フォンダとバリー・ニューマンのコンビによる楽屋おちも楽しい。例えば「60年代がいいといっても67年までだ」などとうそぶきながら、後半はロードムービー的展開となるところなどは、完璧な『イージー・ライダー』と『バニシング・ポイント』へのオマージュだ。<6月28日>
106.アウトランド/ピーター・ハイアムズ(1981)
木星衛生の宇宙鉱山での薬物を使った労働搾取の実態をあばこうとする保安官。組織に牛耳られている基地のなかには協力するものはいない。SF版『真昼の決闘』という趣。『ブレード・ランナー』に先駆けて暗い未来を暗示した作品でもある。保安官のショーン・コネリーは融通が利かない性格の世渡りべたで転々させられた挙句、今の宇宙鉱山に保安官として赴任してきている。長年の宇宙生活に妻子は愛想をつかして地球に戻ってしまう。ひとりで組織に立ち向かう背景には自分の今までの生き方を試す意味もある。狭く立体的な宇宙基地のなかトラックバックやトラックアップを駆使したダイナミックなカメラワークによる追跡劇はまさにハイアムスの真骨頂だ。宇宙基地内の味気ない生活風景などもよくできている。組織や黒幕や殺し屋がイマイチ迫力がなくラストの決着のつけ方も中途半端なのが残念。<6月29日>
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