わたしたちは今の戦争の実態をほとんど知らない。『帰還兵はなぜ自殺するのか』(デイヴィッド・フィンケル 2015)は、そうした無知なわたしたちに大きな衝撃を与える。
本書はイラク戦争から帰還した兵士たちが、戦闘が原因で負うことになったPTSD(心的外傷後ストレス障害)とTBI(外傷性脳損傷)に苦しむ姿を描いたノンフィクションである。
激しい戦闘によるトラウマや度重なる爆弾による爆風ショックは、身体的な損傷はなくとも、頭痛、めまい、不安、気鬱、不眠、悪夢、記憶障害、判断力低下、人格変化、自殺願望など、さまざまな精神的な障害を引き起こす。
アフガンスタン戦争とイラク戦争に派兵されたアメリカ兵は約200万人。そのうち50万人がこうしたPTSDとTBIに苦しんでいるという。その数字の意味する過酷な現実に息をのむ。
精神が病んだ兵士とすっかり別人になってしまった夫や父と暮らす家族の苦悩が語られる。
アダム・シューマンは、帰還して2年になるが、頭を打たれ部下マイケル・エモリーを救出した際に口に流れ込んだ血の感触が消えず、たまたま作戦に同行できず死んでいった部下ジェームズ・ドスターへの罪悪感に苦悩する。妻のサスキアとの喧嘩が絶えず、ついにショットガンをこめかみにあて妻に向かってこう叫ぶ「このいまいましい引き金を引けよ」。
同じ部隊だったトーソロ・アイアティは、乗っていたハンヴィー(高機動多用途装輪車両)が爆撃を受ける。自身は脚を負傷し、帰還後は、ハンヴィーの運転席で焼け死んだ同僚の姿の夢を見続けている。記憶障害の治療で薬漬けの日々が続き、妻への暴力で逮捕される。
マイケル・エモリーは奇跡的に助かったが、右手首を噛み切って死のうと試みる。妻に離婚され、今は、左半身麻痺と認識障害で苦しみながら、トレイラーハウスで一人で暮らしている。「いつもそのことばかり考える。何時間もここに座って考えるんだ。もしこんなことをしなかったら。もしあんなことをしなかったら。それですっかり頭がおかしくなる」。
ニック・デニーノは、イラクの小学校で女子生徒全員を撃ち殺す夢を見ていることを妻に言えずに煩悶している。クリスティ・ロビンソンの夫ジェシーはアセタミノーフェンの過剰摂取で命を絶った。銃を持ったイラク人親娘を撃ち殺したと、繰りかえし話していたダニー・ホームズは、婚約者のシャウニー・ホフマンと一歳の娘を残して突然、家の階段で首を吊った。
感情を排した3人称による客観的な描写のなかに、ときおり登場人物のこころのつぶやきを挿入した語り口が、戦場とはまた別種の、日常のなかの、ひとりひとりの、誰にも知られない、孤独な苦闘をあぶりだす。
アメリカでは毎日18人前後の元兵士が自ら命を絶っている。アフガニスタンとイラクからの帰還兵だけでも自殺者は数千人にも上り、戦闘中の死者数(6,460人)を上回るとみられている。(ニューズ・ウイーク日本版 2012年8月7日
http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2012/08/post-2647_1.php)
PTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれる症状は、大砲などの近代兵器がはじめて使用された第一次大戦時代にシェル・ショック(砲弾神経症)と呼ばれていた(映画『西部戦線異状なし』でのリアルな描写が思い起こされる)ころから、知られてきたが、本書ではTBI(外傷性脳損傷)と呼ばれる新たな戦争後遺症に言及されている。
TBI(Traumatic brain injury)とは爆弾の爆風などの急激な気圧の変化で、空気を含む脳が頭蓋のなかで損傷を受けてしまうことだ。
TBIは様々な要因が絡み合って引き起こされる。以下は毎日新聞の2009年2月の記事をまとめた「移動支援フォーラム」というサイトからの情報だ。
(http://ido-shien.mobi/thewar/onterror.html,
http://ido-hien.mobi/thewar/fighting/terrorism.html)
◎アフガニスタンやイラク戦争では、武装勢力による手製爆弾(IED=即席爆発装置)によ
る攻撃によって、アメリカ側の兵士が受ける爆弾攻撃の回数が圧倒的に増えた。
◎戦争の長期化により複数回従軍する兵士が増え、結果的に爆風を浴びる回数や期間が
増加した。
◎過去の戦争では兵士が死亡していたような大規模な爆発も、戦闘服やヘルメットなどの
ハイテク化と高度な医療体制によって、兵士が生き延びるようになり、その結果、ひとりの
兵士が繰り返し爆風にあおられることが多くなっている。ちなみに米兵の死者と負傷者の
比率はベトナム戦争で1:2.6、湾岸戦争で1:1.2、イラク戦争ではこれが1:7.3となり、
今の戦争は、負傷者の割合が極めて高い、兵士が「生き残る戦争」になっている。
◎イラク戦争において、武装勢力によるIED攻撃の激化に対応して、米軍側は巨額の資金
を投じ、地雷にも耐えうる装甲車を大量に購入し、最新のヘルメットや防護服を導入した。
しかし、この重くて硬い防弾服が、爆風が兵士に与える圧力をさらに増幅させている。
◎一度、爆風を受けた人が再び爆風を受けると、TBIを起こす可能性は1.5倍に高まるとい
う。一方、爆風によるTBIは、検知自体が難しく、精巧なMRI(磁気共鳴画像化装置)なら
一部確認できることもあるが、磁気を使うので爆発で金属片が体内に入っている可能性
のある兵士には使えないなどの課題もあり、現実にはイラク戦争においては、負傷兵の
半数以上が72時間以内に部隊に戻っている。
◎帰還兵の治療に当たるウェイン・ミシガン州立大のミリス教授は、TBIは「爆風という凶器
と、米軍のハイテク装備がぶつかり合って生まれた、新しいタイプの脳損傷だ」と指摘して
いる。
本書では、ペンタゴンで陸軍副参謀長ピーター・クアレリ大将が責任者となり、月一回開かれる自殺防止会議の様子も描かれる。世界の駐屯地とつながった会議室では、一件一件の自殺の事例の報告を受け、教訓を引き出し、対策を検討する。さまざまな対策が考えられ、実行されるが、自殺者の数は一進一退、むしろ増え続ける。
無力感と焦燥感のなか陸軍副参謀長は、自殺防止活動の認知のために、戦争決定と予算を担う議員や軍関係者を招いた官邸晩餐会を企画するが、直前で流れてしまう。帰還兵の自殺というテーマに二の足を踏んだ議員たちからキャンセルが相次いだのがその理由だ。
新たな武器の開発や装備の刷新が、思いも寄らない戦争の新たな様相を生み、新しい戦争犠牲者を生む。
アメリカに限らずイラク戦争に参加したほかの国でも同じことが起きているはずだ。そして、敵国とされるイラク軍や武力勢力など、逆の立場の兵士、あるいは戦場の民間人でも同じようなことが起きているのではないか。
本書のあとがきで言及されているように、日本においても、イラク支援のために派遣された延べ一万人の自衛官のうち、帰還後に28人が自殺している。PTSDに苦しむ隊員は一割~三割にのぼるとされている。(NHK「クローズアップ現代」 2014年4月16日放送 http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3485_all.html)
ひとごとではないのだ。
戦争を抑止しするためには、戦争のリアリズムにこだわるしかない。感情によるナショナリズムやイメージによるプロパガンダに抗するには、戦場のリアリズムをもってするしかない。
わたしたちは、今の戦争の新たな様相を知らなければならない。
最後に。
本書を原作とした映画作品の製作が進んでいるそうだ。近作では『アメリカン・スナイパー』(クリント・イーストウッド監督 2015)で、イラク戦争の英雄とされた狙撃手が帰還後PTSDで苦しむ姿が描かれていたが、本書の映画化においては、おそらく、今の戦争の現実にさらに切り込んだ内容になると思われ必見である。(映画.com 2105年8月26日
http://eiga.com/news/20150826/18/)
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