43歳のフランク・ロイド・ライトは、妻子を捨て、施主の妻だったメイマ・チェニーとヨーロッパに駆け落ちする。1910年、明治43年のことだ。
やむにやまれぬ情熱とともに、冷静な計算高さもあわせ持っていたライトは、ヨーロッパの地で自らの作品集を刊行し、逃避先での仕事確保を目論む。
ドイツのヴァスムート社が刊行した図面集『フランク・ロイド・ライト作品集』である。
息子のロイドと事務所のドラフトマンをドイツに呼び寄せ、いわゆるプレイリースタイルと呼ばれるライト初期の住宅の図面を中心に、すべて一から書き直した。それら100枚の図面を42×65cmという横長大判のリトグラフにしてポートフォリオに収めた超豪華版だ。(神谷武夫「古書の愉しみ」)
1998年にヴァスムート社が60%に縮小した横綴じ本として復刻させており、下に載せたものは、それをRIZZOLI社がアメリカで出版したものである。カヴァーに載せられたパースはライトが独立して最初の作品ウィリアム・ウィンズロウ邸(1984年)である。
(STUDIES AND EXECUTED BUILDINGS BY FRANK LLOYD WRIGHT,RIZZOLI,1998))
サイズが縮小されてはいるものの、ファクシミリ版によって、細かい線はもちろん、書体やレイアウトなども忠実に再現されており、当時のオリジナルの雰囲気が伝わってくる。
ひとつひとつ丁寧に描き直された手書きの平面図やパースが実に美しい。プランに落とし込まれた空間の関係性やパースで表現された凝った意匠など細部を追い始めると、ついつい見入ってしまい、時間がたつのも忘れてしまいそうだ。
(Ward W.Willitt’s Villa,STUDIES AND EXECUTED BUILDINGS BY FRANK LLOYD WRIGHTより)
(Thomas P.Hardy house,STUDIES AND EXECUTED BUILDINGS BY FRANK LLOYD WRIGHTより)
その印象は、画集と呼んだ方が近いかもしれない。ここまでのこだわりは、もちろんライト本人の意向によるもので、費用の大半も負担した。
この豪華な作品集を出すことで、逃避先で仕事を受注するというライトの目論みは、残念ながら実現しなかった。ライトの建築はヨーロッパにはひとつもない。
しかしながら、このヴァスムート版『フランク・ロイド・ライト作品集』は、ライトの思惑とは全く別の意味で、建築史に名を残す存在となった。
ライトのプレイリースタイルの住宅は、水平の直線的なフォルム、壁の少ない流れるような平面、大きな開口を介して外部空間と連続する空間構成などを特徴としている。
(Concrete house for Ladies’ Home Journal,STUDIES AND EXECUTED BUILDINGS BY FRANK LLOYD WRIGHTより)
ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなどバウハウスの建築家たちは、こうしたライトの建築に、当時、ヨーロッパはもちろん、アメリカにおいても伝統とされていたボザールスタイルの建築とは全く異なる、簡潔で、自由で、開放的な空間が実現されていることを見て取り、衝撃を受ける。
「ある種の啓示であった」とのミース・ファン・デル・ローエの言葉どおり、このライトの図面集がききっかけになり、ヴァルター・グロピウスによってデッサウのバウハウス校舎とマイスター宿舎が建てられ、いわゆるインターナショナルスタイルのモダニズム建築が誕生した。
ジャポニズム(日本趣味)は1850年代中葉、ヨーロッパで流行し、世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカでも注目を集めるようになる。
1887年、フランク・ロイド・ライトは大学を中退し、シカゴのジョゼフ・ライマン・シルスビーの建築事務所に就職する。ライトはこのシルスビーを介して日本文化、とりわけ浮世絵に魅了されていく。
シルスビー自身が東洋美術の蒐集家でもあったが、より重要なのは、シルスビーがアーネスト・フェノロサの従兄だったことだろう。フェノロサは、明治期に日本美術をアメリカに紹介したキーマンであり、日本から帰国後はボストン美術館東洋部長を勤めた人物である。ライトが最初に手に入れた浮世絵はフェノロサからのものだったらしい(『フランク・ロイド・ライトと日本文化』 ケヴィン・ニュート 1997)。
このフェノロサと東京帝国大学での同僚だったのがエドワード・モースであり、そしてフェノロサの弟子だったのが岡倉天心だ。モースは日本の住宅研究の嚆矢といわれる『日本のすまい 内と外』(原題 Japanese homes and their surroundings 1886)の著者であり、岡倉天心は日本文化の精神をはじめて英語で語った『茶の本』(原題 The book of tea 1906)を書いている。
ライトは、当時のアメリカの日本研究の第一線の人物のサークルのなかにいた。ライトは浮世絵蒐集家、そして名うての浮世絵ディーラーとして名を馳せていく。
「現在、合衆国にあるほとんどの浮世絵は、かつて私の所蔵したものか、私が精力的に買い集めたものである」と豪語するライトの言葉はあながち誇張ではなかった。(『フランク・ロイド・ライトの日本』 谷川正巳 2004)
そんなライトが実物の日本建築を始めて見るのが1893年のシカゴ万博で建てられた日本館鳳凰殿である。
(シカゴ万博 日本館鳳凰殿,1893年)
鳳凰殿は、宇治の平等院鳳凰堂を模した建築で、すべての材料を日本から持ち込み、日本の職人に手で建てられたものだ。日本建築の伝統をアピールするためか、様式的には藤原、足利、徳川の三つの様式が盛り込まれていた。パンフレットは岡倉天心が書いている。
シカゴ万博では、ライトが当時、勤務していたルイス・サリヴァンの事務所も交通館を設計していた。その設計監理を担当していたライトは、鳳凰殿と出会い、その工事の一部始終を観察し、完成後も足しげく鳳凰殿を訪れていたという。(『フランク・ロイド・ライトとは誰か』 谷川正巳 2001)
日本の魅力にどっぷり浸っていたライト。
そんな目で改めてヴァスムート版『フランク・ロイド・ライト作品集』を眺めてみると、前掲書においてケヴィン・ニュートが指摘しているように、ウィンズロウ邸のファサード構成やヴォリューム感は、鳳凰殿そっくりだし、そのパースの構図は、柳の枝葉を内部フレームに設えた歌川(安藤)広重の「八つ見の橋」(『名所江戸百景』 1856)にそっくりなのだ。
(鳳凰殿立面図(左)vsウィンズロウ邸立面図(右),『フランク・ロイド・ライトと日本文化』,ケヴィン・ニュートより)
(「八つ見の橋」,歌川広重,『名所江戸百景』より)
さらには、ライトのほかの作品、例えばプレイリースタイルの代表作ロビー邸の極端に長く延びた二重屋根は、東本願寺の重層入母屋造の屋根を思い起こさせ、また、生涯の最高傑作として有名な落水邸(カウフマン邸)の流れ落ちる水は、葛飾北斎が描いた浮世絵のなかの滝を否が応でも連想させる。
(ロビー邸,FRANK LLOYD WRIGHT MASTER BUILDER,UNIVERSE PUBLISHING,1997より)
(カウフマン邸,FRANK LLOYD WRIGHT MASTER BUILDER,UNIVERSE PUBLISHING,1997より)
ライトの建築を見た時の、不思議な既視感は、こうした理由によるものだったのだ。
ライトは日本美術に心酔していたことは認めているが、浮世絵や日本の建築からの影響は頑なに否定している。
「私の作品に、外国のものと、土着のものを問わず、外部からの影響は、決してなかったことを述べておきたい。(中略)現在に至るまで、いかなるヨーロッパの建築家の作品も、私には全然影響を与えなかったことを付け加えたい。(中略)インカ、マヤそして日本のものについていえば ― すべてこれ、私にとって素晴らしい確認であった」(『ライトの遺言』 フランク・ロイド・ライト 1961)
巧妙な戦略家でもあったライトらしいというべきか、あるいは、肯綮(こうけい)に中る指摘に対する過剰反応とみるべきか。
今日、インターナショナル・スタイルとして世界に普及しているモダニズムデザインが誕生した背景には、伝統的な日本文化からの影響があった。そして、日本文化に内包された価値が、モダニズムへと昇華されるためには、フランク・ロイド・ライトの天才性が不可欠だったことを忘れてはならない。
*初出:zeitgeist site
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