ル・コルビュジエの日本における唯一の作品が東京上野にある国立西洋美術館だ。2016年7月17日にユネスコの世界遺産に登録されることが決定したとの報道があった。国立西洋美術館は、巨匠ル・コルビュジエの建築の持っている特徴を余すところなく伝えてくれる。
モデュロールで作られた美しいフォルム
薄い横長の箱がピロティで地上から持ち上げられているような建物だ。そのバランスが美しい。国立西洋美術館は、平面が一辺が41.1メートルの正方形で高さは9.83メートルである。
前庭はちょうど国立西洋美術館と同じ奥行きを持っている。十分な引きを設けて、立面を一望できる視点をきちんと設けているところなど、ル・コルビュジエの古典主義的な作風が垣間見られる。
フォルムのバランスの美しさは、モデュロール(ル・コルビュジエが考案した人体寸法と黄金比を基にした寸法体系)による寸法設定が行われているからだ。
ちなみに、右手の手前から奥に伸びる低い壁は、当初計画の前庭(建物と同じ正方形2つ分の面積があった)を南北方向に2分し、かつ国立西洋美術館の立面を黄金比に分割する点に向かう位置に設けられている。
ピュリスムの絵画のように配置された窓や階段
正面には大きなガラス開口とオブジェのようなRC造の階段が設けられている。建物本体の立面とアンシンメトリーな位置に設けらたこれらのエレメントの秩序感は、まるでコルビュジエの描くピュリスムの絵画のようだ。
ル・コルビュジエは、もともと画家志望であり、建築で名をあげたあとも、午前中は必ずカンヴァスに向かう生活を続けていた。絵画はコルビュジエの創造の源泉だった。
型枠の木の跡がきれいに転写されたRCの壁柱。ユニテ・ダビダシオンなどのピロティ柱に通じるコルビュジエらしい造形だ。側面から持ち出された手摺も見どころのひとつだ。ル・コルビュジエにとって階段や手摺は空間に配置されたひとつのオブジェだった。
外壁に使われているのは石植えパネルと呼ばれている、青みがかった小石を埋め込んだPC板で、見る距離や角度、太陽の光の具合などによって、さまざまな表情を見せる。窓のない、ある意味単調な立面に独特の表情を与えている。ちょっと日本の玉石洗い出しにも似ており、この建物にどことなく日本風の赴きが感じられるのは、このあたり由来するのかもしれない。
ル・コルビュジエの代名詞となっているピロティ。竣工時はピロティ空間の奥行きはもっと深く、現在のチケットカウンターあたりまでが外部だったそうだ(*)。
ル・コルビュジエは、<ピロティ>、<屋上庭園>、<自由な間取り>、<水平連続窓>、<自由な立面>を新しい建築の5つの原則として提唱する。
国立西洋美術館では、この5原則のうち、<水平連続窓>以外が実現されている。美術館では窓はいらないので<水平連続窓>は実現されていないが、そもそも<水平連続窓>は<自由な立面>によって実現可能になるアイテムであることを考えれば、5原則の本質はすべて実現されているといってもよい。ちなみに屋上に関しては、開館当初は利用されていたようだが、今は使われていない。
19世紀ホール。「えもいわれぬ空間」の可能性
常設展示スペースへの導入部は、中央に設けられた、大きな吹き抜けの空間であり、コルビュジエによって19世紀ホールと命名された。高い三角形の天窓から、柔らかく微かな光が降り注ぐ様子は、ル・コルビュジエの言う「えもいわれぬ空間」(エスパース・アンディシーブル)の片鱗を感じさせる。
ル・コルビジュエは、この壁面を19世紀を象徴する写真壁画で飾るつもりでいた。その下絵まで描いていたが実現しなかった。19世紀ホールのやや物足りない印象はそうした理由によるものだ。実現していたら、光、建築、絵画、彫刻が一体化した、まさに「えもいわれぬ空間」が日本で実現していたかもしれない。
「建築的プロムナード」を体感するスロープ
上階の展示室へは折り返しのスロープを登ってたどり着くようになっている。
こうした主体者の動きとともに変化する建築空間を、ル・コルビュジエは「建築的プロムナード」(プロムナード・アルシテクテュラル)と呼んだ。ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸、サヴォア邸、クルチェット邸などの代表的な住宅作品でもスロープが設けられている。
ル・コルビュジエの夢「無限成長美術館」
展示室は回廊型の空間で構成されている。
ル・コルビュジエはこうした回廊型空間による増殖可能な美術館を「無限成長美術館」と呼んで、1920年代から数多くの計画案を作って実現を夢みてきた。現実に建築されたのは、インドの2箇所とここ国立西洋美術館の計3箇所のみである。
高い天井(4m95cm)と低い天井(2m26cm)の2種類の天井の空間、19世紀ホールに開かれたバルコニー、宙に浮いたような中3階のバルコニーなどが組み合わされた、空間が縦横に変化し、流動する入り組んだ空間が迷路のようで好奇心をくすぐる。
当初は中3階の照明ギャラリーから自然光を取り入れた照明計画とされていたが、上手くいかず、現在は完全な人工照明となっている。
黒に塗られた低い方の天井と光沢のある黒い床が、展示室を静謐な印象の空間にしている。
中3階のバルコニーへ続く階段。ここでも階段や手摺は空間に配されたオブジェである。
日本の風土に根をおろしたコルビュジエ建築
ル・コルビュジエは1955年に建設地の視察を兼ねて訪日して以来、設計中、建設中は一度も現場を訪れていない。
ル・コルビュジエの基本計画(1957年に日本に到着した成果物は、図面3枚と説明用のポートフォリオのみで、図面には寸法の記載はなかったそうだ)を基に基本設計、実施設計を行い、現場を監理しながら建築として実現させたのが、前川國男、板倉準三、吉阪隆正の3人の日本弟子達だった。
(左から前川國男、板倉準三、吉阪隆正。『ル・コルビュジエの国立西洋美術館』 藤木忠善 より)
ル・コルビュジエの海外での作品の作り方は、こうした方法が当たり前で、作品によってはコルビュジエ本人が一度も現地を見ないで出来上がる作品もあった。
こうしてル・コルビュジエ的でありながら、かつ、その建築が建つ国の風土的でもある、という作品が出来上がる。国立西洋美術館を見たときに感じるどこか日本的なコルビュジエ建築は、こうしたプロセスで生み出されたものだったのだ。
かなわなかった再来日。
1959年、国立西洋美術館は竣工する。ル・コルビュジエは坂倉準三が送った竣工写真を見て「美術館の仕上がりは完璧で、私は満足だ」と返信している。
(*ル・コルビュジエによるスケッチ。国立西洋美術館は中庭を囲む文化センターの一部として計画されていた。)
当時72歳のル・コルビュジエは、また、こんなメッセージも寄せている。「開館式には行けないが、近々、中央ホールに19世紀を讃えた写真壁画がをかかげるために日本にいきたい。この美術館は文化センターの一部であり、電子の時代にふさわしい実験劇場を加えて完全な姿になる」と。
その希望は実現せず、ル・コルビュジエは5年後の1965年に亡くなる。終生、愛した海に帰るような最期だった。
(*)当初ピロティだった部分を室内化しているほか、前庭に作られた日本庭園、内装の変更、ファサードに設けられた律動ルーバーの撤去、自然光による照明計画の中止など、現在の国立西洋美術館は、ル・コルビュジエによる当初の設計から少なくない箇所が変更されている。ユネスコの諮問機関は、2016年5月に公表した事前審査の報告で、こうした変更箇所を元の状態に戻すことが望ましいとの専門家の意見があることを公表している。(2016年7月27日 日本経済新聞夕刊)
*参考文献 : 『建築をめざして』(ル・コルビュジエ 吉阪隆正訳 鹿島出版会 1967)
『ル・コルビュジエの国立西洋美術館』 (藤木忠善 鹿島出版会 2011)
『ル・コルビュジエ展カタログ』 (セゾン美術館 毎日出版社 1996)
*初出:zeitgeist site
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