丹下健三が設計した築地の電通本社ビル(電通テックビル 1967年竣工)は取り壊しが決まり、現在は空き家状態になっている。跡地は周辺も含めて住友不動産によって開発される予定だ。
丹下健三は当時の電通社長吉田秀雄から本社ビルの設計を依頼された際、広く築地エリア全体を対象に「築地再開発計画」(1964)を策定する。
(*「築地再開発計画」CG 右奥中央寄りに見えるのが築地本願寺 『メタボリズムに未来都市』より 制作:芝浦工業大学 デジタルハリウッド大学院)
電通本社ビルは、この「築地再開発計画」のなかで提案された全体のなかのひとつのピースとしての建物なのだ。そして「築地再開発計画」自体は1961年に発表された「東京計画1960」の続編とでもいうべき構想だった。
(*「東京計画1960」と丹下健三 『東京人』2013年11月号より 写真:川澄明男)
「東京計画1960」は、成長する東京を都心から東京湾にリニアに伸びる都市軸に沿って拡大させていくという、その後のメタボリズム運動の始まりとも言われる計画だ。
「東京計画1960」において、東京湾上に伸びる2本の交通網からなる都市軸の内部には業務ゾーンが配置されている。「築地再開発計画」は「東京計画1960」における業務ゾーンのイメージを具体的な築地エリアに落とし込んだものだ。
電通本社ビルの当初の設計は、この「築地再開発計画」でのイメージを忠実に具現化したものだった。
(*電通本社ビルの当初の設計模型 豊川斎赫『丹下健三とTANGE KENZO』より 写真:村井修)
2つのコアのヴォリュームが垂直に伸びる。コアは人や情報やエネルギーを垂直方向に導く役割とともに、フロアーを支える構造の役割を担い、コアの間には橋梁のようにトラスに組まれた鉄骨が架け渡され、フロアーを支えながら、そのまま外壁の意匠となる。構造から開放されたオフィスは無柱空間が実現するとともに、全方位の三次元方向に増殖・成長していくことが可能になる。コアは地下でパーキングを介して都市の道路ネットワークや設備動脈とつながっており、コアで持ち上げられたピロティによって建物の足許は都市に開放される。
この設計案は実現しなかった。着工寸前に推進役だった吉田社長が死去し、大幅な予算超過となっている設計の変更が要求される。設計を一からやり直し、現在のRC造の柱・梁による通常のラーメン構造の建物に変更された。
柱・梁をアウトフレームとすることで、結果的に執務空間の無柱化は実現されているものの、キーコンセプトであったコアの発想はなくなり、鉄骨トラスのファサードによる軽さや増殖や成長の途上を思わせる未完成の雰囲気を漂わせた外観のイメージもなくなり、いかにもマッシブな印象の建物になっている。
当初のコンセプトやイメージからかけ離れてしまった電通本社ビルだが、これはこれで別の魅力を放っている。
存在感のあるコンクリートの柱・梁に覆われた外観は、今どきのスマートなオフィルビルにはない実存的な力強さを感じさせ、ある意味、新鮮だ。
部分に目を転じても、オリジナルでデザインされたと思われる、蛍光灯隠しを兼ねたパーツ化された部材が連続するピロティの天井などは、工業化時代のモダニズムデザインを希求しようとする時代の意思のようなものを感じさせくれる。
たまたま構造体が途中で切断された風にデザインされた妻側に、当初の増殖・成長する建物のイメージがさり気なく残されている。あくまでこの建物は、増殖・成長する三次元都市の一部であると主張しているのだ。
「東京計画1960」において、丹下健三は、これからの都市の本質はネットワークとコミュニケーションであると喝破する。広義のコミュニケーションを担う人々を「オーガニゼーション・マン」と呼び、「ひとは、オーガニゼーション・マンは孤独であると訴える。しかしこのネットワークから見放されるとき、さらに孤独である」と書きつけた。50年以上前とは思えない洞察力に驚く。
実現しなかった丹下健三の二つ都市計画は、コミュニケーションとネットワーク、そして成長する都市というコンセプトを具体的に空間化、建築化、そして人々に向けて可視化してみせたプロジェクトであった。
「電話、ラジオ、テレビ、さらに携帯電話、テレビ電話などの間接的なコミュニケーションの手段も、直接的接触の要求と必要性をますます誘発するだけである。人々はメッセージを運搬し、機能相互を連絡しようと、流動する。この流動こそ、この組織を組織ならしめている紐帯である。1000万都市はこの流動的人口集団である」(丹下健三「東京計画―1960 その構造改革の提案」)
丹下が師と仰いだル・コルビュジエは「ヴォアザン計画」(1925)において、オースマンが作ったバロック都市パリの右岸に「緑と太陽と空間」の都市を暴力的に埋め込んでみせた。このイメージは、後に「輝ける都市」として、自動車とスーパーブロックと超高層建物からなる現在の都市のプロトタイプとなった。
(*ル・コルビュジエによる「ヴォアザン計画」模型)
それでは丹下健三が描いた都市のその後はどうなったのだろうか。電通本社ビルにかすかに宿るイメージの片鱗で終ってしまったのか。
50年後の今になってようやくわかる。丹下健三の先見の明が描いた都市が世界中で実現していることを。
ただし、孤独な「オーガニゼーション・マン」が求めたのは、現実のアーキテクチャーのなかのコミュニケーションではなく、ネットワーク空間を創出するアーキテクチャーのなかでのコミュニケーションだったのだと。
「築地再開発計画」の模型写真が、現実の建築や都市というよりは、コンピューターの筐体に納められた電子部品の連結や増殖するサーバー群のように見えてくるのは、丹下健三の天才的なイメージ力によるものなのか、あるは、単なる偶然なのか。
では実際の都市空間はどうなったのか。
ある種の父性や暴力性を背景に、頼まれもしないのに他人の敷地を勝手に取り込んで、なんらの金銭的メリットもないのに、このように大胆な都市の未来を描いてみせるような人物は、残念ながら丹下健三以降、日本には誰もいない。
(*「築地再開発計画」模型(部分) 右側の手前の建物が電通本社ビルのもともとのイメージ 丹下健三・藤森照信『丹下健三』より 写真:村井修)
*参考文献 : 丹下健三,『人間と建築』,1970,彰国社
丹下健三・藤森照信,『丹下健三』,2002,新建築社
『メタボリズムの未来都市』展覧会カタログ,2011
豊川斎赫,『丹下健三とTANGE KENZO』,2013,オーム社
『東京人』2013年11月号,「丹下健三とオリンピック」,都市出版
*初出 zeitgeist site
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