今から53年前の1964年の東京オリンピックによって東京の街は様変わりする。
当時の日本が威信をかけたモダンデザインのレガシー(遺産)とその光と影を今の東京に追った。<中編>では渋谷エリアに東京オリンピック1964のレガシーを訪ねる。
シブヤ文化が生まれるきっかけになった東京オリンピック
1964年の東京オリンピックで最も変貌した街の筆頭は渋谷だ。
渋谷は、代々木や世田谷にあった練兵場の軍関係者を相手にした道玄坂や円山町界隈の歓楽街にルーツを持ち、関東大震災と戦災を契機とする住宅の郊外化を支えた郊外電車のターミナルとして発展してきた街だ。
1934年(昭和9年)に渋谷駅と一体となった東横百貨店(後の東急百貨店東横店東館)が作られる。東急の五島慶太が、阪急の小林一三の梅田駅に倣って作った関東発のターミナルデパートだ。戦争をはさみ、東急会館(1954年 現在の東急百貨店東横店西館)、東急文化会館(1956年)が建てられる。
駅周辺の商業集積は進んだものの、当時の渋谷は、まだまだ郊外電車の乗り換え駅というイメージが強く、面的な広がりや発展性は希薄だった。銀座はもちろん、新宿や池袋などに比べても繁華街としての知名度や集客力は劣っていた。
変貌のきっかけは、1964年の東京オリンピックだった。
現在の神南二丁目にあるNHK放送センターの前身はオリンピックの時に作られた東京オリンピック放送センターだ。NHKは1973年に本部機能もここに移転させる。マスコミ最大のメディアが内幸町から渋谷へ移転したことは、その後の渋谷の発展、ひいては東京文化の西進に大きく寄与する。
(*NHK放送センター 2016)
NHK放送センターと通りを挟んで、同じ旧ワシントンハイツ跡地に、旧渋谷公会堂(1964年)と旧渋谷区役所(1965年)が建てられる。
渋谷公会堂は東京オリンピックの重量上げの会場に使われた、その後はクラシックのコンサートや当時の人気テレビ番組『8時だョ!全員集合』(TBS)や『ザ・トップテン』(日本テレビ)の公開生放送の会場として名を馳せる。
オリンピック選手村は代々木公園として整備され、渋谷は隣接に広大な都市公園や理想的なアスリート環境を有した恵まれた立地条件に格上げされる。同時に駅前中心だった渋谷の街に広がりが生まれ、おしゃれなイメージの原宿や表参道との連続性が強まってくる。
1968年に西武百貨店渋谷店がオープンし、1973年には当時「区役所通り」と呼ばれていた通りに渋谷パルコがオープンする。セゾングループの進出は、東急の牙城だった渋谷のコンサバなイメージを大きく塗り替える。「区役所通り」という地味な名称はおしゃれで欧米風の「公園通り」と呼び名を変え、坂や小さな通りが個性的なストリートに生まれ変わり、大小資本によるさまざまなカジュアルファッションやサブカルチャーが混在する活気ある混沌が生まれ、流行に敏感な若者が集まってくる。
渋谷は、銀座や新宿にはない独自の文化<シブヤ文化>を発信する個性と魅力を有した街へと変貌を遂げる。
放送、情報、公園、スポーツ、おしゃれ、ストリート、カジュアル、カルチャーなど、70年代以降の消費の主流を担った若者を惹きつけるこうしたイメージのすべては、1964年の東京オリンピックの開催を契機とした旧ワシントンハイツ跡地の開発とそれに連なる一連の街の変貌が背景にあったことがわかる。
今の渋谷は、すべては東京オリンピックから始まった、そう断言しても決して言い過ぎとはいえない。
青山通り、六本木通り。東京オリンピックは渋谷の風景を大きく変えた
現在、慣れ親しんだ青山から渋谷にかけての風景や雰囲気も、東京オリンピック1964のレガシーのひとつといえる。
国立競技場がある神宮外苑と駒沢会場を連絡する道路として、青山通りが拡幅され、幅員22mの道路が40mとなる。平屋の商店が建ち並ぶ、のんびりとした風情の通りが一変する。
(*南青山三丁目付近の青山通り 2017)
拡幅後の沿道には、当時、ゲタバキアパートと呼ばれた1階に店舗が入った住宅やオフィスビルが建ち並んだ。現在、ブルックス・ブラザースが入る、住宅公団が建てた青朋ビルなどがその代表だ。
(*北青山三丁目の青朋ビル 2017)
それは確かに、静謐さとつつましさを湛えた低層の街とコミュニティを破壊した「町殺し」(小林信彦が『私設東京繁昌記』で引用した建築家石山修武の言葉)であったことは否定できない。
一方で、拡幅後に建てられた、こうした沿道建物には、ゲタバキと称されながらも、当時、アイビーファッションで日本の服飾業界を変革させたVANジャケットによるVAN本館やVAN356別館(現ブルックス・ブラザースのビル)、日本初の深夜営業の輸入食品スーパーのユアーズ(1982年閉店)ができるなど、アメリカナイズされたファッションや垢抜けたライフスタイルの街としての、その後の青山のイメージを創り出したショップが誕生する。
<前編>で言及した表参道とあわせて、青山・表参道エリアが東京随一の高感度なファッションタウンとなったきっかけは、やはり東京オリンピックにあったといえる。
六本木通りはオリンピックを機に作られた道路だ。都心方面から渋谷を経由して駒沢会場への連絡路として機能した。同時に首都高速3号線の渋谷四丁目暫定出入口~渋谷口までの区間が整備されたことにより、渋谷駅とクロスする箇所(渋谷南立体交差)は、下から玉川通り(六本木通りは渋谷署前以西は名称が玉川通りに変わる)、JR山手線(当時は東急東横線も)、首都高速3号渋谷線が3層に積み重なるという極めて珍しい都市景観を生み出した。
(*東横線の地上ホームがあった頃の渋谷南立体交差 2013)
駅舎が谷底に設けられている渋谷ならではとはいえ、地上3階の空中を走り、旧東横百貨店の建物の中に吸い込まれていく地下鉄銀座線(1937年開通)の存在とあわせて、当時の渋谷の風景は、明るい未来を信じていた時代の近未来都市のイメージそのものだった。
(*東急百貨店東横店東館があったころの銀座線 2013)
あれから半世紀。消え去りつつある東京オリンピックの風景
1964年の東京オリンピックは、東京に残っていた終戦後の痕跡を消滅させ、現在につながる風景を作った。そしてその風景も半世紀を経た今、再び消え去ろうとしている。
渋谷公会堂と渋谷区役所は、既に建て替えのために取り壊されている。そしてNHK放送センターも2020年の建て替えが決定している。さらには、渋谷パルコも建て替えのために2016年8月にクローズした。
(*解体前の渋谷パルコ 2016)
渋谷駅とその周辺も急ピッチで建て替えが進んでいる。2012年に東急文化会館がヒカリエに建て替わり、2013年には東横線渋谷駅が地下化され、かまぼこ屋根のユニークな地上ホームがなくなり、ターミナルビルも東急百貨店東横店東館もは既に解体されている。
(*かつての東横線地上ホームと東急百貨店東横店 2013)
現在、残っている東急百貨店東横店西館および南館(1970年)も今後、解体予定であり、東急の五島慶太が構想し、渡辺仁や坂倉準三が形にした戦後のモダニズムの香りが宿る渋谷駅の一連のターミナルビル群が姿を消すのも時間の問題だ。
(*ヒカリエから見た渋谷駅周辺 2017)
高度経済成長を背景に、1964年の東京オリンピックをきっかけに大きく変わった渋谷のまちは、半世紀を経た今、再び変貌の時期を迎えている。
永遠の新しさを求めて止まない日本の都市のダイナミズム。今度の渋谷の街は何を得て、何を失うのだろうか。
<後編に続く>
*初出 zeigeist site
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