今から53年前の1964年の東京オリンピックによって東京の街は様変わりする。
当時の日本が威信をかけたモダンデザインのレガシー(遺産)とその光と影を今の東京に追った。<後編>では東京都心と駒沢エリアに東京オリンピック1964のレガシーを訪ねる。
新幹線、モノレール、首都高、すべてオリンピックに向けて整備された
1964年の東京オリンピックは東京の交通網も激変させた。
1964年10月10日のオリンピックの開会に間に合わせるべく整備されたのが、東海道新幹線(1964年10月開業)とモノレール羽田線(1964年9月開業)と首都高速道路(一号線、二号線、三号線、四号線分岐1964年10月開通)だ。
なかでも東京の風景を一変させたのが首都高速道路。羽田空港から代々木の選手村および競技会場間の輸送が整備の目的だった。
車は首都高速四号線の赤坂トンネルの暗がりを抜け、正面の高層ビルや左側に現れる弁慶濠の水景を眼下に見ながら、赤坂見附へと向けて緩やかな左旋回で進む。アンドレイ・タルコフスキー監督のSF映画『惑星ソラリス』(1972)のワンシーンだ。
(*弁慶壕と首都高速四号線,2017)
大都市の地下と空中を自在に行き来し、高層ビル群の間を縫うように高速道路が続いていく風景は、世界のどこにもない近未来都市のイメージとして稀代の映像作家の想像力を刺激した。
首都高速の建設に当たっては、限られた予算と工期のなさを理由に、建設が容易な運河や河川の上が利用されることとなり、その結果、都心に残っていた江戸以来の水のまち東京の景観は、決定的なダメージを受ける。首都高速四号線分岐線が、多くの反対を押し切って日本橋の上を跨ぐように作られたことにより、江戸の五街道の基点である日本橋(妻木頼黄設計,1911年竣工)は、コンクリートの塊に押しつぶされそうな姿で今日に至っている。これを日本近代ならではのシュールな景観といって喜んでばかりいてもいいものかどうか。
(*日本橋と首都高速四号線分岐線,2017)
日本のホテルで実現されたバックミンスター・フラーの発想
都市ホテルの整備も東京オリンピック1964が契機となった。1959年のオリンピック誘致決定後に開業した主なホテルは、ホテルニュージャパン(1960)、銀座東急ホテル(1960)、パレスホテル(1961)、ホテルオークラ(1962)、東京ヒルトンホテル(1963)、ホテル高輪、東京プリンスホテル、ホテルニューオータニ、羽田東急ホテル(1964)など、帝国ホテル以外の日系都市ホテルのほとんどはこの時期に開業した。
なかでも開会直前の1964年9月1日に開業したホテルニューオータニは、客室数1,085室の威容を誇り、都市ホテルの大型化やラグジュアリー化の先駆けとなった。工期17ヶ月という超突貫工事を完遂するため、世界で始めてユニットバス(現在のTOTOが開発)が採用された。もともとバスルームのユニット化という発想はバックミンスター・フラーの「ダイマクション・バスユニット」(1938年特許出願)に由来する。日本とフラーの浅からぬ因縁を感じさせるエピソードだ。
(*ホテルニューオータニ本館,2017)
オリンピックレガシーを駆け抜ける007ジェームズ・ボンド
ホテルニューオータニの本館は、映画007シリーズの『007は二度死ぬ』(ルイス・ギルバート監督1967)で、敵方の「大里化学工業」の本社ビルとして登場する。当時、最高層の17階建、独特のY字型プラン、そのてっぺんに円形の回転ラウンジが乗ったこのユニークな建物は、当時はさぞかし未来感が漂っていたのだろう。
MI6のエージェントであるジェームズ・ボンドが放つ英国流のスノッブな雰囲気とともに、世界各地にロケーションを展開し、豪華な旅行気分とエキゾチズムを売り物としたこのハリウッドの娯楽大作が描いたのは、相撲や忍者や和服の美女と近未来モダンデザインが平気で共存している不思議な都市東京の姿だった。
(*『007は二度死ぬ』の来日記者会見。1966年7月29日。左から浜美枝、ショーン・コネリー、若林映子,source: http://www.jiji.com/jc/d4?p=bdg012&d=d4_ent)
我がボンドガール若林映子はショーン・コネリーを乗せた白のトヨタ2000GTを駆って、ここホテルニューオータニから、代々木の国立競技場を経て、駒沢オリンピック競技場の前を駆け抜ける。我々も東京オリンピックのレガシーを縫うように疾走するジェームズ・ボンドを追って駒沢に向かおう。
駒沢オリンピック公園の前身は名門ゴルフ場だった
玉川通りの駒沢交差点から駒沢公園通りに入った左側に小さな石碑が残されている。石碑には東京ゴルフ倶楽部跡と記されている。
(*駒沢ゴルフ場跡地の碑,2016)
駒沢オリンピック公園は、元々は東京ゴルフ倶楽部というゴルフコースだった。昭和天皇が皇太子だった時代、1922年(大正11年)4月にイギリスのエドワード皇太子(後のウィンザー公)と一緒にコースを廻った名門ゴルフコースだ。
(*駒沢ゴルフクラブでの昭和天皇とエドワード皇太子)
実はこの東京ゴルフ倶楽部の跡地は、幻のオリンピックといわれている1940年のオリンピック(日中戦争が勃発し開催を返上した)でもメイン会場として予定されていた場所だった。
どこまでも広がる水平性。稀有な空間体験ができる中央広場
丹下健三によるシンボリックな巨大建築がそびえる代々木の会場とは異なり、駒沢オリンピック公園は、周辺の環境に寄り添うような巧みなマスタープランが特徴だ。日本都市計画の創始者である高山英華が全体計画を手掛けた。
競技施設群を中央広場周囲に集め、その外側に環状道路とフィールド運動場を配し、外周は緑の植栽が取り囲むように計画されている。駒沢通りから幅100メートルの大階段を登った先に広がるのが中央広場。あえて緑などは一切設けず、空間そのものの広がりとダイナミズムで魅せる造りとなっている。周囲の建物の高さが低く抑えられ、幾何学パターンの床がどこまでも広がっていくようなイメージを一層、強調している。
(*駒沢オリンピック公園中央広場,2016)
駒沢オリンピック公園のシンボルとなっているのが、中央広場の北側中央に建つオリンピック記念塔。地上12階、高さ50メートルのモダンな五重塔を思わせる意匠は、フラットな中央広場にあって、ひときわ垂直性が強調されて印象的だ。水盤の中に建っているというのもどこか日本建築を思わせる。設計は芦原義信。
(*駒沢オリンピック公園オリンピック記念塔,2016)
中央広場西側の八角形の建物は、ホッケーの試合が行われた体育館。八角形のその姿は、法隆寺夢殿を思わせることで有名だ。建物ヴォリュームの大半をサンクンガーデン内に沈めることにより中央広場レベルからの高さを低く抑え、HPシェルにより屋根が大きく反り返る様子は、寺院建築の反った大屋根を思わせる。設計は芦原義信。
(*駒沢オリンピック公園体育館,2016)
中央広場の東側におかれた陸上競技場ではサッカーの試合が行われた。巨大な爪で覆われた宇宙船を思わせるデザインは一目見たら忘れられない。こちらも地盤面の高低差を巧みに利用して、中央広場から見たときの高さが抑えられ、中央のオリンピック記念塔の垂直性を際立たせている。設計は村田政真。
(*駒沢オリンピック公園陸上競技場,2016)
調和の秘密は伽藍配置にあった
駒沢オリンピック公園の中央広場における、日本の空間秩序を逸脱したようなスケール感や近未来感とともに、既視感を伴ったどこか日本的な雰囲気を感じるさせる不思議な空間体験の理由は、その建築意匠もさることながら、空間構成そのものにあった。
広場の広がりを背景に、オリンピック記念塔の垂直性と両サイドの建物の水平性をアンシンメトリーに配置した絶妙なバランスは、法隆寺などに見られる、日本建築における伽藍配置が参考にされたと言われている。
(*source:http://www.kajima.co.jp/news/digest/nov_1999/100nen/index-j.htm)
代々木が、モダニズムとして昇華された日本建築のエッセンスのシンボリックな実現だとするならば、駒沢は、マスタープランとして表現された日本的空間構成のモダニズム的実現だ、といってもよいかもしれない。
駒沢は「五輪の聖地」と呼ぶにふさわしい東京オリンピックのレガシー
中央広場の印象的な床パターンに使われている石材は、当時、順次廃止されつつあった都電の軌道の敷石を利用して作られている。ここ駒沢には、1964年の東京オリンピック前後に消え去った東京の記憶の断片が埋め込まれているのだ。
体育館の地下には東京オリンピックメモリアルギャラリーが設けられており、往時の懐かしい写真や記念の品々が展示されている。ここ駒沢公園オリンピック公園は、2020の東京オリンピックでも、練習会場として利用されるそうだ。
三度のオリンピックに関わることになる駒沢公園オリンピック公園は、まさに「五輪の聖地」と呼ぶにふさわしい、東京オリンピックのレガシーの代表といえる。
*初出 zeigeist site
copyrights (c) 2017 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。