第22章ではマーロウが<ヴィクターズ>で運命の人リンダ・ローリングに出会う。第3章と呼応するかたちでギムレット談義が登場するチャプターでもある。
「中に入ると温度が下がる音さえ聞こえそう」な静かな店内。冒頭からチャンドラーの比喩が冴えわたる。
It was so quiet in Victor's that you almost heard the temperature drop as you came in at the door.
バー・スツールに座っている女性をこう描写する。
She had that fine-drawn intense look that is sometimes neurotic, sometimes sex-hungry, and sometimes just the result of drastic dieting.
fine-drawn intense lookのfine-drawnは文字通り、細く引き伸ばされたという意味だが、体重を落とした、洗練された、という意味もある。後にdrastic dietingという表現があるので、痩せているというニュアンスが込められているのだろう。fine-drawn intense lookで「細っそりとしてどこか張り詰めたような印象の顔立ち」という感じか。村上訳では「細部までくっきり引き締まった」、清水訳では「しずんだ魅力のある」という訳になっている。
"A gimlet," I said. "No bitters."とマーロウはレノックスから頼まれていたギムレットをオーダーする。No bittersとしたのは、以下の第3章に登場するレノックスによるギムレットに関する講釈どおりに注文したからだ。
"They don't know how to make them here," he said. "What they call a gimlet is just some lime or lemon juice and gin with a dash of sugar and bitters. A real gimlet is half gin and half Rose's Lime Juice and nothing else. It beats martinis hollow."
そしてバーテンダーもそれに呼応するように「この前の夜のお友達とのお話に出ていたローズのライム・ジュースを入手した」と嬉しそうに言う。
"You know something," he said in a pleased voice. "I heard you and your friend talking one night and I got me in a bottle of that Rose's Lime Juice. Then you didn't come back any more and I only opened it tonight."
テリー・レノックスは第3章でこう言っていた。「本物のギムレットはジンとローズのライムジュースが半々でほかにはなにも加えない。これを前にしたらマティーニなんか味気ないものだ」と(レイモンド・チャンドラー『ザ・ロング・グッドバイ』精読Chapter3)。
We sat in a corner of the bar at Victor's and drank gimlets. "They don't know how to make them here," he said. "What they call a gimlet is just some lime or lemon juice and gin with a dash of sugar and bitters. A real gimlet is half gin and half Rose's Lime Juice and nothing else. It beats martinis hollow."
マーロウがバーテンダーの気遣いに感謝し、ローズのライムジュースを使ったダブルのギムレットを注文すると、バーの女性が「この辺ではそんなものを頼む人はあまりいないようね」(村上訳)と独り言のように言い、ギムレット談義が始まる。
"A fellow taught me to like them," I said.
"He must be English."
"Why?"
"The lime juice. It's as English as boiled fish with that awful anchovy sauce that looks as if the cook had bled into it. That's how they got called limeys. The English-not the fish."
18世紀以降、イギリス海軍では航海中の船員の壊血病予防のためにレモンやライムのジュースが船員たちに支給されていた。イギリス水兵(ひいてはイギリス人)をlimeyライミーと呼ぶのは、このことに由来している。
1867年、スコットランドの港町リースのロシュラン・ローズ Lauchlin Roseは、人気がなかった生のライムジュース(当時は保存のために15%のラム加えられていたそうだが)の代わりに加糖によって保存性を高めたコーディアル・ライムジュースの特許を取得する。
折りしもイギリスでは1867年の商船法によりすべての外洋船にライムジュースを常備することが義務づけられ、ローズ社のコーディアル・ライムジュースは爆発的に需要が伸びる。
(*source : https://www.pinterest.jp/pin/500884789778348644/)
Gimletギムレットの名前の由来は、ジンを飲むときにコーディアル・ライムジュースをミックスして飲むことを水兵たちに勧めたイギリス軍軍医のSir Thomas Gimlette(1857-1943)に由来するとか、あるいは突き刺すような鋭いその味わいからgimlet(錐)と名づけられたなど諸説ある。
「本物の」ギムレットを味わったマーロウの感想はこうだ。
The bartender set the drink in front of me. With the lime juice it has a sort of pale greenish yellowish misty look. I tasted it. It was both sweet and sharp at the same time.
「甘さと鋭さが両方同時にくる」。それもそのはず、このレシピによるギムレットは相当に甘く感じるはずだ。
最近のギムレットはフレッシュライムジュースを使って、もっとドライに作られるのが普通だ。ジン45ml+フレッシュライムジュース15mlをシェイクして、これでは酸っぱすぎるということで、+シュガーシロップ1tbsで甘さを与えるというところが一般的なレシピか(★1)。
テリー・レノックスが「本物の」と主張する50:50の甘いギムレットは、はたして本当に本物なのか。これが、あながち酔っ払いテリーの与太話ではなさそうなところが難しい。
このジンとローズのライムジュースを半々というレシピはロンドンのサヴォイホテルのアメリカン・バーのチーフ・バーテンダーだったハリー・クラドックが1930年に出版したカクテルの権威書といわれる『サヴォイ・カクテルブック』にも下のように記載されており、当時の英国では、一般的に普及していたレシピのようだ。<レイモンド・チャンドラーの世界>というサイトの「本物のギムレットを求めて」というページに詳しく紹介されている。
1/2 Burrough’s Plymouth Gin(★2),
1/2 Rose’s Lime Juice Cordial.
Stir,and serve in same glass.
Can be iced if desired.
「バローのプリマスジン1/2、ローズのライムジュース(コーディアル)1/2、ステアしてグラスへ、必要に応じて氷」
ちなみにプリマス・ジンは『サヴォイ・カクテルブック』に先立って1925年に最初のカクテル・ブックレットを出している。そこにはギムレットのレシピも掲載されていたそうだが、それが、現在のプリマスジンのサイトに掲載されているレシピ(プリマスジン3に対してローズ・ライムジュース1というどちらかというと今日的なもの)と同一のものかどうかは分からない。
さてテリー・レノックスが主張して止まない「本物の」ギムレットのことだが、たぶんこういうことなのではないだろうか。
氷さえも必須ではないこの50:50のギムレットのレシピは、氷や冷蔵技術がなかった時代のイギリス海軍の船上で生まれたこのカクテルの始原に対するオマージュなのではなかったのか。
それは都会的な洗練とか、甘いか甘くないかなどとは、まったく無縁なところで成り立っている、古の英国ネイヴィーのプライドを記憶に留めるレシピだったのではなかったか。
ワイルドでストレートすぎる感が否めないこのレシピに、マティーニをドライに進化させ、シンガポールスリングを洗練させたといわれるハリー・クラドックが手をつけなかったのも、たぶん同じ理由なのではなかったか(★3)。
(*souirce : https://sipsmith.com/around-world-50-classic-cocktails-white-lady/)
テリー・レノックスにとって「本物の」ギムレットとは、イギリスの記憶であり、イギリス的なものの象徴だったのだろう。
何故、テリーはイギリス的なものにこだわるのか。「本物の」ギムレットにまつわる談義が、単なるエピソードに留まらずに、謎解きの核心に関連しているというのも本作の奥深い魅力といえる。
そして、テリーのこだわりは、すなわちチャンドラーのこだわりでもある。チャンドラーはハリー・クラドックとは逆に、シカゴに生まれ12歳で母とイギリスに渡った。英国海軍でも職を得ており、その後、24歳でアメリカに戻り、第一次大戦で再び、イギリスに渡っている。
第二次大戦前のイギリスを経由した眼差しによって描かれる戦後のアメリカ西海岸の都市の風景、というのが『ザ・ロング・グッドバイ』のトポスだ。
本文に戻ると、先の文でバーテンダーがローズのライムジュースを「今日、開けたところでした」と言っているのは、バー・スツールに座っている女性が飲んでいたのも、テリー・レノックスがこだわった50:50のギムレットということになる。
この女性は、ライムジュースにこだわるマーロウの友達はきっとライミー(イギリス人)だと言い、レノックスのことを知りすぎていたくらいに知っていたと言う。
"I said I knew him rather too well. Too well to think it mattered much what happened to him. He had a rich wife who gave him all the luxuries. All she asked in return was to be let alone."
女性はリンダ・ローリングと名乗る。殺されたシルヴィア・レノクスの姉で富豪ハーラン・ポッターの長女だった。
彼女はレノックスが<ヴィクターズ>でギムレットを飲んでいたことを知っており、さらには、そこでマーロウと一緒だったこともたことも知っており、偶然を装ってマーロウとの邂逅を目論んでいた、ということになる。
父親のハーラン・ポッターは、テリーが好きで、テリーのことをこう言っていたという。
He liked Terry. He said Terry was a gentleman twenty-four hours a day instead of for the fifteen minutes between the time the guests arrive and the time they feel their first cocktail."
「パーティーに到着してから、最初のカクテルを味わうまでの間の15分間だけしか紳士でいられない連中とは違い、テリーは24時間ずっと紳士だった」と。50年代のアメリカのパーティーシーンが眼に浮かぶようなチャンドラーの比喩。
さらにハーラン・ポッターは、シルヴィアにとうの昔に見切りをつけていたと言う。bluntは直截な、write offは、見限る、死んだものとみなす、hagは鬼婆、frightfulはひどく醜い、dregはくずという意味。
"This is going to sound pretty blunt, I'm afraid. Father had written my sister off long ago. When they met he barely spoke to her. If he expressed himself, which he hasn't and won't, I feel sure he would be just as doubtful about Terry as you are. But once Terry was dead, what did it matter? They could have been killed in a plane crash or a fire or a highway accident. If she had to die, it was the best possible time for her to die. In another ten years she would have been a sex-ridden hag like some of these frightful women you see at Hollywood parties, or used to a few years back. The dregs of the international set."
international setは今で言うとjet setぐらいのニュアンスだろう。「あと十年も生きていればハリウッドのパーティーでよく見かけるような色情狂の鬼婆、社交界のくずのような存在になっていたでしょう」とは、辛らつ過ぎるほど正直な妹への評価だ。
リンダ・ローリングは、こうなったこと、つまり、シルヴィアが死んで、その犯人と目されるレノックスも自殺して、裁判ざたや新聞ネタにならずにすべてが闇の中に葬られたことは、結果的に一番良かったのではないかと言う。
身内の死にまつわる事件に対してのあまりに冷静でしかも整然としたリンダの解釈に急に腹立たしくなるマーロウ。ハーラン・ポッターが、その巨額の財産や政治的影響力や自分の組織を使って、レノックス事件を表に出さないように動かなかったとは到底信じられないとまくし立てる。
"You're a fool," she said angrily. "I've had enough of you."
「馬鹿な話だ」と一蹴するリンダ。後半のI've had enough of youは「あなたの話は十分だ」という意味。「もうたくさんですわ」というのが清水役、「聞くに堪えません」が村上訳。
レノックスの自殺は、一族のスキャンダルを嫌ったハーラン・ポッターの求め応じた結果だったのではないのか、となおも引き下がらないマーロウ。ハーラン・ポッターは電話をかけてきたテリーに以下のように話してメキシコへの逃亡と自殺を迫ったのではないか。テリー、死体置き場で会おうじゃないか、と。have it ~は~の境遇にある、という意味。check outは死ぬという意味。
"You've had it soft and now is the time you pay back. What we want is to keep the fair Potter name as sweet as mountain lilac. She married you because she needed a front, She needs it worse than ever now she's dead. And you're it. If you can get lost and stay lost, fine. But if you get found, you check out. See you in the morgue."
そんなことを言いふらしたらあなたのキャリアは終わりを告げる、と警告を発するリンダ。
手を引けとの警告はこれで三度目だとうそぶくマーロウに対して、"Three gimlets. Doubles. Perhaps you're drunk."の言葉を残してリンダ・ローリングはその場を立ち去る。
He touched his cap and went off and came back with a flossy Cadillac limousine. He opened the door and Mrs. Loring got in. He shut the door as though he was putting down the lid of a jewel box.
a flossy Cadillac limousineのflossyとは一体どんなニュンスか。flossyは立派な、しゃれた、派手な、などの意で良い意味でも悪い意味でも使われるようだ。1950年代のキャディラックのリムジン(シリーズ75)はこんな感じだ。圧倒的な存在感を放っていた、アメ車が最もアメ車らしい時代の車。flossyとは、豪華で優雅で大げさな、まさにこのイメージを表現していたのだろう。「宝石箱の蓋を閉めるように車のドアを閉める初老の黒人のショーファー」というのも実にチャンドラーらしい人物形容だ。
(*source : https://www.flickr.com/photos/autohistorian/3751503722)
別れ際、リンダ・ローリングは、アイドルヴァレーに住んでおり、ロジャー・ウェイドを知っているという。亡きレノックスに関連する人物が次々にマーロウのもとに現れ、不思議な連関をなし始める。
<ヴィクターズ>のバーのカウンターで二人の様子を窺っていた、メンディ・メンネンデスの子分のチック・アゴスティーノが、バーにやってきた風紀取締役の巨漢ビッグ・ウィリー・マルーンにこてんぱんにされて22章は幕を閉じる。
In Hollywood anything can happen, anything at all.
(★1) ちなみにTokyo Culture Addictionオリジナルのギムレットは、料理blog<チキテオ>に掲載中。コーディアル・ライムジュースの代わりに、手づくりのライムシロップとフレッシュライムの合せ技により、切れと甘さと酸味のバランスを図ったギムレットです。もちろんジンはプリマス・ジンで。
(★2) 何故、Burrough’s Plymouth Ginという表現になっているのか、長い間不可解だったが、たぶん以下のような事情があったと推測される。Plymouth Gin Historyというサイトに、プリマス・ジンを作っていたCoates&Co.社が1933年にBurrough’s社(Beefeater Ginの会社)に対して、同社がプリマス・ジンと称して販売する商品に関する裁判に勝利して、以降はプリマスの旧城壁に囲まれた地域の中で蒸溜されたジンのみがプリマス・ジンと称することができる、いわゆる原産地名称表示制度が生まれたとの記載がある。ここから推測するに、ハリー・クラドックがこのカクテル・ブックを書いた時には、バロー社などからもプリマス・ジンと称した商品が販売されており、このBurrough’s Plymouth Ginという表現になったのだと思われる。何故、ハリー・クラドックがバロー社のものを選んだのかは不明。一般的だったのか、あるいは、個人的な好みだったのか。ちなみに、プリマス・ジンはイギリスで唯一原産地表示制度が適用されたジンであり、ロンドン・ジンはロンドンで蒸溜しなくてもロンドン・ジンと表示することが出来るそうだ(<稲富博士のスコッチノート>というサイトより)。
(★3) ドライ志向の現在からみると、当時のレシピは、ギムレットに限らず総じて甘かったという事情もあるだろう。ちなみに『サヴォイ・カクテルブック』のドライ・マティーニのレシピは、ジンとドライヴェルモットが50:50、オレンジ・ビターズをたらしてシェイクして供するとなっている。
to be continued
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