バウハウスの創始者ヴァルター・グロピウスは、1954年に来日した際、自らの希望により清家清が設計した斉藤助教授の家(1952年)を訪れ、「日本建築の伝統と近代技術の幸福な結婚」と賞賛した。グロピウスは清家を自らが主宰する協働設計事務所TACに招き、清家はTACでグロピウスと一緒に働いている。
建築史家で建築家の藤森照信は、「斉藤邸は木でつくったファンスワース邸である」、「清家はミース的なものの体現によって戦前のモダニズムを突き抜けた」と評している(『昭和住宅物語』 藤森照信 新建築社 1990)。
竹橋の東京国立近代美術館で開催されている「日本の家」展でこの斉藤助教授の家の原寸模型(部分)が展示されているので見に行ってみた。
斉藤教授の家は、開口の幅が約9mに対して室内の奥行きが約4.8mメートルと開口面が大きく奥行きが薄い、まるで縁側やテラスのような開放感を持った住宅だ。
さらに、縁側と反対の奥の壁面もほとんどがガラス開口となっていることも、全体を居室空間というよりも奥行きのある縁側のように見せている要因だ(原寸模型では建具の一部が省略されている)。
この囲まれ感の希薄さを印象づけているもうひとつの要因が、フラットに納められた床と天井の造形だ。フラットでノイズの少ない空間を風や空気や気配が流れる。
普通、日本家屋に入ると目に留まるはずの欄間や鴨居や長押や袖壁や垂壁や敷居が一切目につかない。
障子やガラス戸はすべて床から天井までのフルハイトの高さ(ちなみに天井高は2,375)で設けられており、建具を引けば、居室の床と天井の間に壁的なものはなにもない。鴨居や欄間障子が残された東側の和室(客間)と比較すると、その開放感がよくわかる。
床は室内と縁側ともに同じ檜縁甲板張りとなっている。障子の敷居はチリ2mmで床埋め込みとなっており、室内と縁側の間の枠が目立たない納まりとなっており、障子を引いた際に居室と縁側が一体の連続した空間となって見える。外部との境に設けられた4枚引きのガラス戸の下のレールもほとんど目立たない。
居室と縁側の天井は明るいグレーの和紙が張られたフラットな仕上げになっている。3枚引きの障子の鴨居もチリ2mmで天井内に飲み込んで納められている。外部の軒裏は普通は垂木などで支えられて傾斜がついているが、ここも檜の小幅板を張ってフラットに仕上げられており、さらにガラス戸や雨戸の上枠も天井内に納められている。この徹底したフラットな造形と納まりへのこだわりによって、居室~縁側~軒裏が水平なフラット面で連続する、内と外に境が曖昧に感じられる空間体験を生み出している。
障子やガラス戸を引いた状態で居間に佇むと、まるで全体が床と天井の2枚の水平面だけで構成されたインナーテラスにいるような錯覚を覚える。
この水平な広がり感や内外の一体感をより強調する重要なポイントが、間仕切り(この場合は建具)と柱を分離した設計だ。
通常は柱と柱の間に建具を入れるが、ここでは柱と建具の位置をずらして、柱は水平な床と天井を支える細い丸柱として独立させ、建具はすべてを片側に引けるような設えとして、引いた時に大きな開口が生まれるようになっている。
障子は3枚引き、ガラス戸は4枚引き、雨戸は4枚引きとなっており、ガラス戸と雨戸は両端にの壁の位置に納まるようになっており、すべてを引くと約9mの大開口が生み出される。
間仕切りから独立して設けられた3本の丸柱(直径120mmの檜材)は、それぞれ、開口幅を等分に割った位置に立てられる。結果的に、外側の柱と内側の柱の位置が微妙にずれることになる。この位置がずれた3本の柱が、空間を可視化する一種の装置のようなものとして機能することになり、柱の存在が逆に空間の透明感や奥行き感をより強調する、という構成が見事である。
「ミース的なもの」という視点では、低く水平な建物全体のプロポーションや内外を流動する空間の透明性がミースのファンスワース邸(1952)との類似を思わせ、独立柱が空間の可視化の装置として機能しているところあたりが、ミースのバルセロナ・パビリオン(1929)やトゥーゲントハット邸(1930)を髣髴とさせるところだろう。
しかしながら、実際の空間を体験してみると、実感は「ミース的なもの」とは異なる、しかも根本的に異なる、ようにも思える。
ミースの建築から受ける印象は、「囲む」という意思だ。無限の広がりの空間を区画して人間のための内部をつくるという理性だ。画す手段が透明なガラスといえども、それは外界から区画して内部をつくるための壁だ。区画されてできた内部空間は外界から隔絶された空間だ。むしろ透明なガラスは、最小限のマテリアルによって自然と対峙できるという、人間の理性の勝利を物語っている。
一方、斉藤助教授の家から受ける印象は、逆で、極力「囲まない」という態度だ。もちろん人の住む住宅なので物理的には囲んでいる。ただし、外界から内部を区画する手段は、雨戸、ガラス戸、障子などすべて開け放てる引き戸であり、壁は最小限だ。建具はすべて引き込める設えとなっており、立てた状態(閉鎖)よりも引いた状態(開放)がより意識されており、内外を流動する空間が常態とみなされている。
比喩的に言えば、ミースが理性、合理、物質性、四角四面、箱的とすると、斉藤助教授の家は、感性、曖昧、非物質性、融通無碍、東屋的と言うことができるだろう。
ミース・ファン・デル・ローエは、宇宙の一画を箱で囲み、閉鎖空間を作り自然と対峙した。清家清は庭の一画に最小限の床・天井・柱を設け、自然との境が曖昧な場を設えた。
清家清は、この家をつくるに当たって心がけたことは?との問いに「日本語で<間>って言うでしょう。物体じゃなくて、物と物の間にあるもの。この家はその<間>をつくろうとしたのかナァー・・・・。どうだったんだろう」と答えている(前掲書)。
ミースは「物」を主語した家であり、清家は「間」を主語にした家である。
日本建築は、開放性、無限定な空間、簡素さなど、モダニズムの価値を先取りしていたといわれるが、現実はそう単純ではないことがわかる。一見似ているものの間には、大きな断層が横たわっているのだ。
*「日本の家」展は東京国立近代美術館にて2017年7月19日より2017年10月29日まで開催されている。1945年以降の建築と暮らしをテーマに、50人(組)を超える建築家による75の住宅建築を13の系譜に分類して展示されている。展示される模型・図面・写真・映像などは400点を超える。
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