18世紀のフランス宮廷社会では、現代人が車に寄せるのと同様の興味と関心が、家具に対して寄せられていたそうだが、20世紀にモダニズムが誕生した時から、車と住宅はお互いを強く意識する関係だった。
住むための機械、車のような住宅。ル・コルビュジエの《シトロアン住宅》
ル・コルビュジエは1917年、30歳で故郷スイスからパリに出て1920年に「エスプリ・ヌーヴォー」紙を創刊し、数々の提案を世に問うてゆく。
ロシア革命が起こり(1917年)、第一次世界大戦が終わり(1919年)、グロピウスがバウハウスを設立する(1919年)。新しい時代が幕を開けつつあった。コルビュジエは、工業製品に「新しい時代の精神」が具体化した姿を見出し、船舶、飛行機、車を称賛した。
なかでも動く居室ともいえる車は、住宅との類似性を有しながらも、機能重視の合理性、標準化による量産、高い製品精度、移動の自由、スピードの快楽など、住宅にはない価値と美を持った最も憧れる存在だった。
「建築は因習のなかで喘いでいる」。コルビュジエはそう主張して、さっそく工業化した建築のイメージを《シトロアン型量産住宅》と命名して発表する(1920年)。シトロアンとはもちろんシトロエンをもじったものだ。白い箱型に吹き抜けとガラスの大開口と屋上テラス組み込んだ、単純だが明るく住みやすそうな住宅だ。
(*Maison Citrohan, 1922, 出典 : 『ル・コルビュジエ展カタログ』、毎日新聞社、1996年)
1階をピロティで持ち上げ下をガレージとした、最初の案を改良した1922年の案がどことなく車を思わせるのは単なる偶然か。
「家屋を住むための機械のように考えて、道具として考えなければならない」
「尖った屋根裏のついていない家に住むことを恥ずかしく思うとことはない。鉄板のように滑らかな壁であることも、工場の硝子屋根のような窓どあることも。だが誇りに思ってよいことは、タイプライターのような便利な家を持っていることだ」
「パルテノンと自動車を見せて、二つの異なった分野ではあるが、二つとも淘汰の産物でることをわからせよう」
(*Weissenhof Siedlung, 1927, 出典 : 『ル・コルビュジエ展カタログ』、毎日新聞社、1996年)
「住宅は住むための機械」という有名な言葉の「機械」とは車のことだった。住宅は車を憧れた。
車×住宅という終わらない夢。前川國男の《プレモス》
そのル・コルビュジエの事務所で、最初の日本人所員として師のもとで2年間修行したのが建築家前川國男だ。
《プレモス》は、そんな前川國男が設計にかかわった木造パネルによるプレハブ住宅だ。戦後日本における量産化住宅のはしりのようは存在だ。
コルビュジエ事務所で前川が担当したのが師が提案してCIAM第2回大会のテーマにもなった最小限住宅だったそうだ。量産住宅による建築革命、この若きコルビュジエの意志をついで戦後の日本で試みられたのが《プレモス》だった。
(*プレモス7号型説明図, 出典 : 『ル・コルビュジエから遠く離れて』松隈洋、みすず書房、2016年)
420万戸が不足するといわれた第二次世界大戦後の日本の住宅不足は深刻であり、同時に軍需産業の民生転換もアメリカやヨーロッパと同様に重要な課題だった。
《プレモス》 PREMOSとは、プレファブのPRE、前川國男のM、後輩で構造家の小野薫のO、そして山陰工業株式会社のSを組み合わせたものだ。
《プレモス》開発はもともと、この山陰工業株式会社という戦中は大型グライダーを製造していた会社の工場建設にかかわっていた前川が、戦後に仕事がなくなったこの会社から職人と機械の利用法を相談されたことに始まる。
山陰工業株式会社の後ろ盾になっていたのが鮎川義介という人物。鮎川は後の日産自動車をはじめとする日産コンツェルンの創始者で、前川とは戦前から満州の飛行機工場建設の関係で知り合いだった。
《プレモス》は約1,000棟建設され、プレハブ住宅黎明期の建築家が関わった商品としてはそれなりの実績を残したが、そのほとんどは「炭住」と呼ばれる北海道と九州の炭鉱労働者のための住宅で一般住宅は数える程度だった。住宅や民生品よりも石炭や鉄鋼などの基幹産業に資源を集中投資し経済復興を図るという、いわゆる傾斜生産方式と言われた戦後政策が足かせとなった。
量産住宅の要である販売体制がないことも大きなネックだった。当然、前川國男は販売に関心があるわけでも、ルートがあるわけでもなかった。住宅に困窮する国民のためにという当初の目的に照らすと、《プレモス》は成功したとは言い難い結果だった。
戦後の住宅不足を目にしながら《プレモス》にピンとくるものがあったのだろう、同時に前川たちの販売や経営の稚拙さにいらだったのか、鮎川は前川に《プレモス》を自分に任せるよう要求し、前川は「あれにプレモスを渡したらロクなもんにならん」と建築家の純粋さで答え、二人は決裂する。
建築家で建築史家の藤森照信はこう嘆いている。コルビュジエの薫陶を受けたモダニズム建築を「代表する前川國男と車づくりを代表する鮎川義介が、戦後の幕が上がった最初の時点で出会っているのだ」「”もし、あのとき、前川がプレモスを鮎川に渡していたなら”」日本における車と住宅の戦後史は今とは全く違ったものになっていたかもしれない、と。
(*ル・コルビュジエと前川國男, source :https://www.pinterest.jp/pin/445926800594664152/)
《プレモス》誕生と挫折の秘話を知った人は、藤森に限らず、そう夢想することをやめられない。
ハウスメーカーのトヨタホームの前身は、トヨタ自動車の創業者豊田喜一郎が1950年に始めたユタカプレコンという会社であり、トヨタにとって住宅は、創業時からの意中の分野だった。トヨタは2005年に倒産しかかったミサワホームを傘下に収めるなど、創業以来の住宅への夢を今も見続けてる。
車は住宅の夢を見続けている。
<下>に続く
*参考文献:
ル・コルビュジエ『建築をめざして』(吉阪隆正訳、鹿島出版会、1967年)
藤森照信『昭和住宅物語』(新建築社、1990年)
『ル・コルビュジエ展カタログ』(毎日新聞社、1996年)
松隈洋『ル・コルビュジエから遠く離れて』(みずす書房、2016年)
*初出:zeitgeist site
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