B級グルメは80年代のバブルの頃に登場した。
B級グルメという言葉が広く認知されたきっかけは『スーパーガイド 東京B級グルメ』(文藝春秋編 文春文庫ビジュアル版 1986)だ(★1)。
里見真三が編集長をしていた80年代前半の季刊誌『くりま』での食特集記事を母体としてビジュアル文庫化したものだ。
気取ってなくて、お手頃価格で、そしてストレートに旨い。そんな食べ物と食体験を指してB級グルメと呼ぶことは、その後すっかり定着した。
前掲書のカバーの中央には、築地「豊ちゃん」の名物の一皿「オムのっけハヤシ・カレーの両がけ」の迫力ある写真がドンと鎮座し、その上にちょっとレトロな字体でタイトルが乗せられ、ケチヤップで描かれた大きめの「B」の文字が、いかにもの雰囲気を醸し出している。
築地「豊ちゃん」(カツ丼)、神保町「天丼いもや」(天丼)、銀座「竹葉亭」(うな丼)、人形町「玉ひで」(親子丼)、新橋「かめちゃぼ」(牛丼)、赤坂「津々井」(オムライス)、銀座「煉瓦亭」(ハヤシライス)、本郷「ルオー」(カレーライス)。前掲書の巻頭特集「これが伝統の味「五大丼三ライス」だ!」において紹介されている店たちだ(★2)。
「五大丼三ライス」という見事なカテゴライズと里見真三とカメラマンの飯窪敏彦が始めたといわれる真上からのアングルで撮られた料理写真にそそられて、こうした店を一軒一軒潰していくのがバブル期の秘かな楽しみだった。
B級グルメとはアンチグルメという意味でもあり、そうした見立てが成立する背景には、80年代に起こったグルメブームがあった。アンチとはいえ、食通でも食道楽でも食いしん坊でも食べ歩きでもなく、グルメという言葉にこだわるところに、その批評性が伺える。
グルメブームの基本になったのが西洋料理、なかでもフランス料理の一般化だ。もちろんフランス料理店はそれ以前から存在していたが、それはホテルのダイニングや「マキシム」など本国のメジャーブランドの海外店舗に限られていた。
日比谷「アピシウス」(1983)のようなラグジュアリーなキュイジーヌ・フランセーズから、西麻布「ビストロ・ド・ラ・シテ」(1973)のような本国並みの雰囲気のビストロまで、70年代から80年代前半にかけて、フランスで修業した日本人シェフが個性的なオーナーレストランを開店させる。
80年代後半から90年代前半にかけては、ピザとスパゲッティが主流だったイタリア料理においても、オーナーシェフのイタリア料理店が次々と開店、フレンチの次のブームとなった。バブル期には「イタめし」と称され、これをきっかけに、いわゆるレストランへの敷居が一気に下がった。
こうして、幅と奥行を有する形で日本に定着した西洋料理が80年代のグルメブームのきっかけであり、今や食傷ぎみのグルメという言葉もフランス語が出自でこの時に生まれたものだ。
折しもバブルと重なり、グルメブームは沸騰した。「「グルメ」に浮かれた激動の10年」。食関係の編集者畑中美応子は、80年代をこう総括した(『ファッションフード、あります はやりの食べ物クロニクル1970-2010』 紀伊国屋書店 2013)。
B級グルメの話に戻ろう。
『スーパーガイド 東京B級グルメ』の最初のページに、こんな宣言が載せられている。「A級の技術で東京流の味と伝統を守り、しかも値段はB級の心意気に燃える店のレポートを中心とする、これは一種の東京論である」。
B級グルメは70年代から80年代にかけてブームになった東京論とシンクロしていた。
70年代に入り、それまでの高度経済成長の結果、日本の一人当たりGDPはアメリカの水準に近づき、1ドル360円だった円の価値は、1980年代の後半には1ドル120円台と、固定相場制時代の3倍の購買力を有するようになっていた。
こうした近代化による豊かさや自信というひとつの達成の一方で、近代化の原理であるモダニズムは60年代後半以降、世界的なレベルでその矛盾や行き詰まりをみせるようになっていた。
モダニズムによる達成と矛盾が、文学、社会学、思想、批評、都市、建築などさまざまなジャンルを東京論に向かわせた。
生きられた都市、書かれた都市から都市を読み解く、テキストを読むように都市を歩く、表層の裏側に隠された都市の構造を探るなど、それまでの機能を語る都市論や都市問題への実務的アプローチではない東京論が生まれた。
磯田光一『思想としての東京』(1978)、川添登『東京の原風景』(1979)、富田均『東京徘徊』(1979)、槇文彦『見えがくれする都市』(1980)、前田愛『都市空間のなかの文学』(1982)、陣内秀信『東京の空間人類学』(1985)など、当時の多くの東京論が目を向けたのが東京のルーツとしての江戸だった。
東京論は、近代化がないがしろにした江戸の残り香を求め、今の東京に潜む江戸以来の構造を探り、前近代と近代が平気で隣り合う東京への愛憎を表明する。
西洋モダニズムの観点からは、異質で遅れた都市とみえる東京は、むしろ奥が深く、趣があり、モダニズムの単純な論理では括りきれない、ユニークな都市として再認識されるようになった。
「昔風の菓子パンが食べたくて」、「セピア色の町 谷中散歩」、「東京惣菜資料館」、「カタログ 下町のかおりをつたえる菓子」、「蕎麦屋で酒を呑む」、丼もの、洋食、ラーメン、蕎麦、お惣菜、カレーパン、コロッケ、焼きそば、豚のしょうが焼き、あんこ、ロールキャベツ、エスニック、世紀末東京、下町、商店街、ガード下、墨田川、築地、谷中、浅草、人形町、神楽坂、四谷荒木町etc.
B級グルメシリーズのビジュアル文庫から拾ったキーワードだ。登場するのは下町、レトロ、日常料理など庶民生活を象徴する街や場所や一皿だ。
B級グルメは単なる旨安グルメではなく、東京人のルーツとしての下町(あるは町人地)に江戸や明治や昭和初期から育まれた伝統的の味覚を探るという、東京論のバリエーションだった。
東京論は江戸に向かい、B級グルメは下町に向かった。
バブルは経済的エスカレーションとその無謀さの破局というエコノミカルな側面だけでは決してなかった。すくなくとも日本の80年代バブルにおいては。
地上げが横行し、日々様変わりする街並みを見ながら、同時に、表層が失われながらも残り続ける構造を探り、うたかたのなかに不易を求め、前近代と近代の共存に魅せられ、モダニズムの価値観を揺さぶられながら、ぼくらは東京を歩き、B級グルメと嘯いて、バブルとその崩壊の時代の、そんな東京を生きていた。
(★1)B級グルメという言葉が最初に使われたのは、ライターの田沢竜次が雑誌『angle』に連載した記事をもとに書いた『東京グルメ通信 B級グルメの逆襲』(主婦と生活社 1985)だと言われている。田沢竜次はライターとして前掲の『スーパーガイド 東京B級グルメ』にも参加している。B級グルメと冠された同様のビジュアル文庫はその後同出版社から数冊出版されている。
(★2)8店のうち築地「豊ちゃん」、神保町「天丼いもや」、新橋「かめちゃぼ」は閉店している。
(★)トップ画像は市川市八幡の「大黒家」のカツ丼(2013年撮影)。江戸・東京論の先駆者のような永井荷風は、晩年、八幡に住み「大黒家」のカツ丼を愛好した。荷風は亡くなる1959年5月30日の前日もここ「大黒屋」でカツ丼を食べている。「大黒家」も2017年に閉店している。
*初出: 東京カンテイ「マンションライブラリー」
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