『アメリカ大都市の死と生』 THE DEATH AND LIFE OF GREAST AMRICAN CITIES (1961)(★1)は、アーバンデザインや都市計画の分野ではバイブル的存在として名高い著作だ。
著者のジェイン・ジェイコブズは、政治家や官僚や専門家は都市のことをなにもわかっていないとして、自らが住むニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジの街の様子を生き生きと活写し、多様性こそが都市に不可欠な要素だと主張し、行政が一方的に既存の街並みを無視して道路を通したり、大掛かりな高速道路を作るやり方やスラムクリアランスと称して地域のコミュニティを破壊してスーパーブロック(大区間)に高層建物を建てる再開発手法を批判した。
(Jane Jacobs in Washington Square , source : website CURBED, photo by Fred W.McDarrah/Getty Images)
ジェイコブズは安全で魅力的な都市のコミュニティには、機能が多様であること、街区は小さく、街路は何本もあること、新旧の建物が混在していること、人口が高密度であること、の4つの要素が重要だと主張した。
それは、職住を分離し、車専用道路により歩者分離を図り、足元にオープンスペースを確保して高層建物を建てるという、当時の主流だったコルビュジエ流のモダニズム思想に基づく都市計画を真っ向から否定することを意味していた。
田舎(ペンシルバニア州スクラントン)の商業高校出身で三児の母親だったジェイン・ジェイコブズの著作は、都市計画の専門家やアカデミズムからの非難と反発を受ながらも、街の暮らしを破壊する大鉈を振るうような都市計画や一方的なスラムクリアランスによる弊害やインターナショナリズムによる画一的な都市の姿に疑問を持つ多くのひとびとの共感を得ていく。60年代初頭のアメリカにおける公民権運動やベトナム反戦にみられるような反体制運動とのシンクロもあった。
ジェイン・ジェイコブズは、アクティビストとしても名高い人物で、ワシントンスクエアパークを分断して5番街を延伸する計画やグリニッチ・ビレッジを横断するように計画されていたローワー・マンハッタン・エクスプレスウエイ(ローメックス)計画への反対運動を主導した。
(Jane Jacobs at a demonstration against the proposed Lower Manhattan Expressway, source : website The Bowery Boys, photo by Fred W. McDarrah/Getty Images)
お互いに天敵とまで言われた、当時のニューヨークの都市計画の推進責任者であり、「マスタービルダー(創造主)」と崇められる一方で、「パワーブローカー」としてその強引なやり口が非難されたロバート・モーゼスとジェーン・ジェイコブズとの「闘い」をめぐる様子は、アンソニー・フリント『ジェイコブズ対モーゼス - ニューヨーク都市計画をめぐる闘い – 』(渡邊泰彦訳 鹿島出版会 2011)に詳しく記されている。
アンソニー・フリントの本のなかで思わぬ記述があり、目が留まった。
「「風に吹かれて」と「時代は変わる」の間で、まだそれほど有名ではなかったボブ・ディランが、ローワーマンハッタン・エクスプレスウェイへの抗議の歌曲を書き、この地域の美しい調べをもつ街路の名前、ディランシー、ブルーム、マルベリーを挿入してデモ行進で歌えるようにした」(前掲書)
その曲はListen Robert Mosesと題された曲で歌詞は以下の画像にある通りだ。この画像が掲載されたwebsiteのBELCIMERには書かれたのは1963年と記されている。
グリニッチ・ヴィレッジというと思い出されるのが、ボブ・ディランの3枚目のアルバム『フリーホリーイン』(1963)のジャケットだ。
両側に車が停まった狭い道路、鉄骨階段がむき出しになった5階建てぐらいのレンガの建物が建ち並ぶ街並み、ディランが当時恋人だったスージー・ロトロと腕を組んで身を寄せ合って雪のグルニッチ・ビレッジの街を歩いている。
ボヘミアンな人々が闊歩する気の置けない自由な街。ニューヨークにおいそれとは行けない時代にあって、このジャケット写真のイメージは、グリニッチ・ヴィレッジのアイコンだった。
文学や演劇や音楽や前衛アートを目指す若者たちが全米中から集まり、<ヴィレッジ・ヴァンガード>をはじめとする伝説的なジャズクラブが建ち並び、ビートニクや反体制運動の基地となり、ゲイカルチャーの発祥の地といわれた、1950年代から60年代にかけてのグリニッチ・ヴィレッジは、カウンターカルチャーの中心地だった。
ボブ・ディランもそのなかの一人で、自由で寛容な雰囲気に惹かれ、1961年に故郷ミネソタから移り住んだ。
ジェイコブズの息子のジム・ジェイコブズはこう証言している。(from THE GLOBE AND MAIL website)
「両親の家ではいつもプロテストソングが流れていて、私はそれを聞いて育った。(中略)ジェインとボブ・ディランは一緒にある曲を書いているんだよ。ジェインがローワー・マンハッタン・エクスプレスウェイの闘いのためにプロテストソングが必要だと言い出して、友人のアーティストのハリー・ジャクソンが当時彼の家に居候していたボブ・ディランをジェーンのところに差し向けたんだ。ジェインはディランにプロテストソングはどう構成されるべきで、どういう役割を果たすのかについて、彼を手助けし、彼に言い聞かせていたよ。おそらく彼が書いた初めてのプロテストソングだと思うよ」
当時の若者が反体制やプロテストに惹かれないわけがない。ましてや、生涯、労働組合活動家でもあったウディ・ガスリーに憧れ、ボヘミアンと反体制のメッカであった当時のグリニッチ・ヴィレッジに移り住んだ、二十歳そこそこのナイーブな若者であれば。
そして確かにボブ・ディランはプロテストフォークの若きヒーローとして登場した。
(Bob Dylan, sitting on a bench in Christopher Park, January 22, 1965,source:website RIOT MATERIAL, photo by Fred W. McDarrah)
しかしながら、こんな証言もある。
「自らが自分自身の広告(引用者注:反体制のフォークの神様として売り出そうとするコロンビアによる広告)と戦っていることに気がついた。例えば彼は<激しい雨が降る>が核の冬を描いていることを否定した。そうでありながら、彼はまたマーケティングの精神に沿っても演奏した。のちに、この歌が核の時代の恐怖、とくにキューバ危機への一般的な反応だと主張したのだ。広く引用されていた発言で、彼はこう述べている。「自分は残された時間があまりないと分かったときに書いたんです」。<激しい雨>は、実際は、キューバ危機が始まる少なくとも1か月前には書かれていた」(アレックス・ロス『これを聴け』、みすず書房、2015)。
さまざまなディラン研究家によって明らかになった彼の経歴や5枚目のアルバム『ブリンギン・イット・バック・ホーム』(1965)以降のディランの活動は、こうした見方を裏付ける。ボブ・ディランはエレキをアコーティティックに持ち替えたのであり、フォークではなくロックンロールからスタートしたアーティストなのだ。
プロテストソングの「いろは」をボブ・ディランに手ほどきしたのは実はジェイン・ジェイコブズだった。さらにそれをどう使えば効果的なのかを伝授したのも、政治家や有力者をも利用しながら反対運動を仕掛け、展開する天性のアクティビストであり、稀代のストラテジストであったジェイコブズだった。そしてディランはそのストーリーに乗って、その偉大な才能を世に認めさせた。十分にありえる話だ。
残念ながらディランはこの曲を録音していない。
(★1)『アメリカ大都市の死と生』日本語版は1969年に抄訳(黒川紀章訳)、1977年にSD選書として同新版、2010年に完訳(山形浩生訳)がいずれも鹿島出版会から出版されている。
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*初出 : zeitgeist site
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