わたしたちはイメージの都市、イメージの街に生きている
都市や街を物理的な空間としてだけとらえるのは大きな間違いだ。わたしたちは都市や街をイメージとしてとらえ、そのイメージとともに生きている。
都市や街は、目の前の物理的な空間やモノであると同時に、過去の記憶のなかの都市や街であり、さらには、言葉によって獲得された都市や街である。
今はかつてと重なり、ここはどこかとオーバーラップする。慣れ親しんだ今やここは、まったく異なる時空へとつながっている。
昭和30年代。「昭和」の喪失の始まり
昭和の終わりに起こったバブルにより、かろうじて残っていた「昭和」は一掃されたが、「昭和」の喪失は、すでに昭和30年代に始まっていた。
「昭和三十年代は、日本の生活史上、重要な意味を持っているように思える。江戸時代から明治、大正、昭和へと受けつがれてきた生活具や習慣が、この時期にかなり消え去った」という吉村昭の言葉を引用(『昭和歳時記』から)しながら、川本三郎は、消え去ったものの例として、蚊帳、物干台、汲み取り式の便所、おひつ、割烹着、卓袱台などを挙げている(『向田邦子と昭和の東京』)。
記憶をたどり、昭和30年代に消え去ったものをこれに付け加えるとすると、住宅まわりでは、トタン葺きの壁や屋根、下見板張りの木造平屋、木枠の硝子戸、格子戸、捻子締まり錠(ねじしまりじょう)、縁側、敷居、三和土、茶の間、薪で焚く風呂、板塀、数寄屋門、庭木戸、竹垣など、生活用具では氷式冷蔵庫、火鉢、湯たんぽ、練炭コンロ、茶箪笥、大八車などだろうか。
■祐天寺一丁目の住宅地
昭和30年(1955年)に発足した住宅公団は、板張りの独立した食事室を設け、そこをダイニングキッチンと命名した、いわゆる2DKの間取りを供給し始める。この2DKが、核家族、洋風の暮らし、家族間のプライバシーなど、その後の日本の住まい方の原形となって今日に至った。
昭和32年(1957年)に供給された公団・蓮根団地では、ダイニングキッチンにはあらかじめダイニングテーブルが備え付けられていた。その理由はというと、当時は、この板張りの空間に卓袱台を置いて食事をする人が多く、その使い方を啓蒙するためという理由だ(記事「マンションのルーツを体験する<2>ダイニング・キッチンという発明@集合住宅歴史館」参照)。
昭和30年代が、戦前から続いてきた「卓袱台のある暮らし」の転換点だったことを物語るエピソードである。
「卓袱台のある暮らし」を書いた作家
「卓袱台のある暮らし」を卓越した観察眼で書いたのが向田邦子だ。
女正月(一月十五日のこと)や初冬の白菜の漬込みなど家族による季節の行事、嫁ぎ先に合わせておむすび(向田邦子はおにぎりとは書かない)の形が変わることで気がつく慣れ親しんだ家の習慣、カレーライス(外で食べるカレー)とライスカレー(家で食べる母のカレー)の違い、「持ち重り」や「時分どき」や「分限者(ぶげんしゃ)」などの使われなくなった言葉、「疳性」や「たち」(例えば、せっかちなたち)や「くせに」(例えば、女のくせに)などの聞かれなくなった言い方、外では帽子をかぶり、夏には白麻スーツを着、家では和服に着替えるなど昭和の男のいでたち、廊下の突き当りのご不浄、硝子戸の外の庭先に吊り下げられた手洗い器など、暗くて寒そうな日本家屋etc.
ドラマ、エッセイ、小説など、さまざまな作品において、失われた「卓袱台のある暮らし」の具体を、時に突き放した抑制された調子で、しかしながら限りない懐かしさと愛惜を込めて、向田邦子は書いた。
向田邦子が住んだ中目黒
向田邦子が戦争を挟んだ子供時代に住んだのが中目黒だった。小学校一年からの3年間を中目黒三丁目(隣で殺人事件(!)が起こり、後に下目黒四丁目に転居)、女学校一年からの6年間を中目黒四丁目に。いずれも祐天寺にほど近いあたりだった。
■祐天寺の板塀
中目黒三丁目の家はこう記されている。
「小学校一年の時に住んだ中目黒の家は文化住宅のはしりであった。玄関の横に西洋館のついた、見てくれはいいが安普請の、同じつくりの借家が三軒並んでいた」(「隣の匂い」『父の詫び状』収録)。
おそらく中目黒三丁目での日常のひとコマでもあったろう、母が毎晩、茶の間で子供たちの鉛筆をけずってくれた思い出。
「子供にとって、夜の廊下は暗くて気味が悪い。ご不浄はもっとこわいのだが、母が鉛筆をけずる音を聞くと、何故かほっとするような気持になった。安心してご不浄へゆき、また帰りにちょっと母の姿をのぞいて布団にもぐり込み夢のつづきを見られたのである」(「子供たちの夜」『父の詫び状』収録)。
たぶんこれも中目黒時代のワンシーン。
「茶の間からは母が膳立てをする音が聞こえている。祖母は網の上でそっくりかえる味醂干しを白地に藍の印判手(いんばんで)の皿にのせ、五、六匹まとまると、私を茶の間へとせき立てた。受け取る母は、白い割烹着で、赤くふくらんであかぎれの切れた手をしていた。腕のところに輪ゴムをはめていることもあった。輪ゴムは当時は貴重品だったのだろうか。ニ度三度と台所と茶の間の間を往復して、祖母と私はいつも食卓につくのはビリだったが、その代わり、口に入れると、ジュウと音のするアツアツの味醂干しを食べることが出来た」(「味醂干し」『眠る盃』所蔵)。
■中目黒三丁目の住宅地
多感な女学校時代に住んだ中目黒四丁目の家は、おそらくは向田邦子が最も思い出深く思っている家だ。
同居していた祖母が亡くなり通夜の夜、普段の暴君振りとはうって変わって、弔問に訪れた会社の社長に、式台に手をついてひれ伏しながら、卑屈とも思えるようなお辞儀をする父の姿を見た家。
「私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の時期に、八つ当たりの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある」(「お辞儀」『父の詫び状』収録)。
■中目黒三丁目の住宅地
昭和二十年三月十日の東京大空襲の夜、周りが火の海になるなかで、家があった隣組の一画だけが奇跡的に焼け残る。翌朝、死ぬ前にうまいものを食べようじゃあないかとの父の発案で、しまってあった最後の白米とさつまいもの天ぷらを、泥だらけの家でおやこ五人が車座になって食べた家。
「父は泣いているように見えた。自分の家を土足で汚し、年端もゆかぬ子供達を飢えたまま死なすのが、家長として父として無念だったに違いない。(中略)戦争。家族。ふたつの言葉を結びつけると、私にはこの日の、みじめで滑稽な最後の昼餐が、さつまいもの天ぷらが浮かんでくるのである」(「ごはん」『父の詫び状』収録)。
向田邦子は「中目黒っ子」である
昭和四年(1929年)に世田谷の若林に生まれた向田邦子は、保険会社に勤めていた父の転勤の関係で、宇都宮、高松、鹿児島など地方への転居を繰り返すが、少女時代に最も長く住んだのは中目黒だった。
「阿修羅のごとく」に登場する国立の両親の家も阿佐ヶ谷の長女の家も、「あ・うん」の舞台となった白金三光町あたりも、城南や山の手を舞台にした向田邦子のドラマの舞台の原形になったのは中目黒だった。
そして「寺内貫太郎一家」が住む、山の手とは言えない谷中の木造家屋さえも、そのルーツは中目黒にあったとし、「向田邦子は『東京っ子』であると同時により細分化していえば『中目黒っ子』である」と川本三郎は見抜いている(前掲書)。
実はわたしも「中目黒っ子」だった。住所も向田邦子と同じ同じ中目黒三丁目。中目黒四丁目にもほど近いところだった。
多感な少年時代に住んだわけではないので、わたしの場合は、いわば「非正規」の「中目黒っ子」というわけだが。
もちろん戦前ではない。わたしが「中目黒っ子」だったのは、70年代終わりから80年代前半の数年間。
それはバブルが勃興する前の時代。中目黒にもまだ「昭和」がかろうじて残っていた時代だ。
(★)top画像は祐天寺駅に続く商店街。向田邦子は、雨が降り始めた夕方などに、傘を持ってよく祐天寺駅まで父を迎えに行った思い出を書いている。向田親子もこの商店街を歩いたのだろうか。
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