最近の都市開発が詰まらない。大型都市開発など街づくりが詰まらなくなったのはいつ頃からだっただろうか。
第一に、テナントがつまらない。どこにでも出店するファーストフードや収益源としてのチェーンオペレーションのお手軽店舗は対象外としても、核となるテナント自体が他のエリアに本店を構える有名店の2店目、3店目がほとんどで、街づくりのコンセプトに応じた独自のマーチャンダイジングやオリジナリティが感じられない。まるで有名店のネームバリューとブランドに頼った地方都市の駅ビル状態で、それぞれに「本物」や「成熟」を謳い文句に個性ある街を標榜する東京都心の名にし負う街づくりとは思えないなさけなさ。
そして、計画がつまらない。今もって“シオドメ”といっても恐らく誰ひとりとしてひとつの街としてのまともなイメージや印象を持てないような「単品豪華ビルの集積場」を作ってみたり、ケヤキ並木の表参道のロングファサードに壁を屹立させ、息苦しい地下街を作ってみたり、六本木の一等地に印象が希薄な超高層とだだっぴろい芝生広場を作ってみたりと、英知を結集したハズの東京都心の希少な大規模計画がどこでどうなってしまったのか、いやはやという感じ。
最近の東京都心の大型開発は何故詰まらないのか。その答えはそれほど単純ではなさそうだ。
隈研吾によれば、今の街づくりの詰まらなさは、こうした都市開発の開発者=投資家の市場合理的な行動の必然的な結果であるという。
都市開発の巨大な投資リスクに見合う選択として、そのデザイン担当には消費市場でエスタブリッシュトされたブランド建築家や有名設計事務所が選ばれ、それらのデザイナーに期待されるのは、そのブランドイメージを裏切らない「お約束」どおりのデザインとマーケットでの付加価値となるシグネイチャーが主なもので、創造性のあるデザインなどでは決してなく、「かつて才能のあるファッションデザイナーの名前が、ライセンス契約でトイレの便座カバーまで使われるようになり、先細りになっていったのと同じ状況が、都市開発をも侵食している。」と分かり易い比喩で説明している。(隈研吾・清野由美 『新・都市論TOKYO』 集英社新書)
また、隈は自らが参画した東京ミッドタウンの開発を振り返って「所謂、サラリーマン的な日本の典型的な社会システムの中で」、JVを組んでいる各出資者に「説明し易いプロジェクトに落とし込む必要があったわけ。」(GA JAPAN 86号 エーディーエーエディタ・トーキョー)と開発者の本音を分析している。「説明し易さ」は、計画やデザインの分野に限らず、コンセプト立案やテナント誘致の分野においても、きっと重要なキーワードであったであろうことが容易に想像できる。
さらに、開発プロジェクトにおける実務の実態として、総事業費が数千億円の巨大開発は金利との戦い。したがって設計も施工も必然的に時間との戦いとなる。「何か新しいディテールや材料を試そうと思っても、すべて時間がネックになる。すでに信頼性のある既製のディテールのカット&ペースト以外、選択の道はない。そうやって、どこかで見たようなものをペーストしたつまらない建築ができていく社会的必然性が、よく分かった。」(新建築 2008年2月号 新建築社)と専門家の視点から、大型都市開発の現場の実態が具体的に述べられる。
誤解がないように補足しておくが、隈自身は参加した東京ミッドタウンなどの大型開発で「すでに信頼性のある既製のディテールのカット&ペースト以外、選択の道はない」と諦めてデザインしている訳でないこと、したがって、隈の建築も「どこかで見たようなつまらない建築」に終わっている訳ではないことを念のため断っておこう。
都市開発の詰まらなさの要因を、別の角度から見てみよう。
東浩紀は、同じような街が出来るその要因は、法規制や商業主義というよりも、「ポストモダン社会の倫理」に起因していると主張している。
「ポストモダン社会は多様な人間集団の共生を公準としてる。したがって、街には老人も子どもも来られなくてはならないし、いろいろな人が楽しめなければならない。だとすれば、やはり、清潔で安全な「人間工学的に正しい」街区を作るしかない。そう考えたら、あとは細部に金をかけるかどうかぐらいで、全体としては似たような街ができるにきまっている。だからこそ、今は全体的に街に個性がなくなってきているんだろうし、六本木ヒルズがジャスコ的に見えてしまうという逆説も起きるのだと思う。」(東浩紀・北田暁大 『東京から考える』 NHKブックス)
東浩紀のいうポストモダン社会をもう少し解説的に述べてもらうと、「ポストモダンの社会は厄介な二面性を帯び」ており「それは、一方では、近代的な「大きな物語」の強制を放棄し、多様な価値観を歓迎する寛容な社会である(多文化主義)。ところが、他方では、そのような多様性を安全に楽しむために、たえず個人認証と相互監視を必要とする強力な管理社会でもある(セキュリティ化=排除社会)。」とされる。(東浩紀 『情報環境論集』東浩紀コレクションS 講談社)
東によれば、詰まらない都市開発は、関係者全員、つまり供給側と需要側、したがって我々全員がポストモダン社会のあるべき姿を誠実に希求した結果であり、隈のいう建築をめぐる供給側の困難さを招聘しているのは、とりもなおさず、需要側の欲求にこそあるという結論になる。
全員が個性を求めて「自分らしく」を目指すものの、結局は全員が「雑誌らしく」なっているにすぎず、いってみればマーケットに飼いならされた個性や「自分らしさ」の再生産で満足しきっていること。
あるいは、人生を投資のアナロジーで理解し、勝間ナニガシの指南本を必死に読みながら、リスクを回避し安定的なリターンを得ようとせっせと投資に励んでいる我々のメンタリティが、なんのことはない、その運用主体である投資サイドの「説明し易い」平均的行動を結果的に支持していること。
こうした事態は、グローバルな市場を通じて供給側と需要側を結んだ「強固な閉じた円環」をなしているといえ、個人がその閉じられた輪から抜け出すことは容易ではない。
宮台真司は、磯崎新と山本理顕とのシンポジウムのなかで、「脱中心化・脱主体化・脱標準化」したポストモダン社会では、建築家や広い意味でのアーキテクチャー・デザイナーが「もはや、インフラ・レベルでのシステム構築にコミットしているとは言えません。むしろ、インフラ・レベルでのシステムが滞りなく回転することを前提に成り立つ、偶発的で恣意的な表象に関わっているだけです。」「それは、各種の料理人が人々の幸せを増進させるということ以上のものではありません。」「建築家は料理人になるのです。建築家が、システムの基体や基軸にかかわる設計にかかわることはもはないのです。」「建築家の方々の提案は、娯楽的な思いつき以上の意味を持たなくなる。こうした格下げをどう感じ、どうされようとしていらっしゃるのでしょうか。」と刺激的に主張している。(工学院大学連続シンポジウム全記録 『私たちが住みたい都市』 平凡社)
このことは、こと建築家に限らず、今の社会システムの中にいる我々ひとりひとりに当てはまることでもあり、「強固な閉じた円環」のなかでは、主体性の発揮や社会の変革などはもはや極めて困難であることが示唆されていると理解できる。
東も、「その能力がどれほどのものであれ、ある人物がつねに主体的であることができる、という想定にこそ違和感を覚える」、(インターネットなどのネットワークが創造的で主体的な社会を創り出すといわれているが、そうしたものへのリテラシーが高く優れた能力を持ったハッカーなども)「日常生活の大半においては、小売業やメディアから与えられた商品を受動的に消費する「動物」でしかない。」と冷徹に分析している。(東浩紀 前掲書)
あるいは、この円環を断ち切るすべは大澤真幸のいう、虚構さえも超えた暴力的な「現実」への逃避以外にはないのだろうか?(大澤真幸 『不可能性の時代』 岩波新書)
こうした主張を承知の上で、さらに「大きな物語」や「第三者の審級」が不在のポストモダン時代に生きていることも承知の上で、その上で我々がなすべきことは、「閉じた円環」のその閉じられ具合やその強固さを明確にすること、すなわち、選択しているようで実は選択させられていることに自覚的になること、自らの選択が知らず知らず支持しているもの、支持してないものを常に意識すること、その上で、選択の自由のやっかいさから逃げない、選択の失敗を恐れないこと、ではないだろうか。
「閉じた円環」の一画を切り崩すには、まずその円環の存在や閉じられ具合をひとりひとりが認識することから始めるしかないのだから。
渋谷駅の西口のバスターミナルの場所が再開発によりハチ公広場と一体になった歩行者専用の広場になるという。
今の時代に必要とされる「広場」とははたしてどんなものなのだろうか?そもそも渋谷に「広場」は必要なのだろうか?
清潔で安全な、そしてどうしようもなく詰まらない「広場」だけにはならないことを祈って。
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