ふと気がつくと周りの空気や風景が一変している。
何時からこうなったのか、何がきっかけにそうなったのか、周囲を見渡たしたり、過去を振り返ったりしてみるが、一向に判然とせず、霧の中に迷い混んだようなもどかしさが残るだけ。
大抵の場合は、年齢のせいにしたり、いつの時代もそういうものだと勝手に納得してやり過ごすわけだが、しかしながら、それでは割り切れない、澱のように着実に蓄積される漠然とした不安。
今の世界や社会に対してこうした思いを持つ人は少なくないのではないだろうか。
そうしたもどかしさと不安に対してある見方を与えれくれる言説に出会った。
「怒りの復刊」(!)と銘打って刊行された『週刊朝日 緊急増刊朝日ジャーナル』(09年4月30日発刊)の見田宗介による巻頭論文「現代社会はどこに向かうか」。
見田宗介によると「「現代」とは(中略)「近代」から、未来の安定平衡期に至る変曲ゾーンと見ることができる」という。見田の言う「未来の安定平衡期に至る変曲ゾーン」とはこういうことだ。
生物学によると、ひとつの大陸のような閉じられた環境での、ある生物の繁殖の推移は下記のようなS字を引き伸ばした曲線、いわゆる「ロジスティック曲線」を描くという。
曲線のⅠのフェイズは爆発期以前、Ⅱは大爆発期、Ⅲは爆発以降期と呼ばれ、人間の歴史の「近代」とはⅡの「大爆発」の局面であった。
事実、「実際の世界全体の人口増加率の数字を検証してみるとおどろくことに、1970年を先鋭な分水嶺として、それ以降は急速かつ一貫して増殖率が低下して」おり、人間という種は、既にロジスティック曲線でいうⅡの局面の「近代」を経て、Ⅲの局面に至っており、「われわれは「近代」という爆発期を後に、変化の小さい安定平衡期の時代に向かって、巨大な転回の局面を経験しつつある。この転回の経験が、「現代」という時代の本質である。」とされる。そして、「「現代社会」の種々の矛盾に満ちた現象は、(中略)「高度成長」をなお追及しつづける慣性の力線と、安定平衡期に軟着陸しようとする力線との拮抗するダイナミズムの種々層」なのだという。
さらに、2008年のグローバルシステムの危機は実は「100年に一度の危機」などではなくて、「ほんとうはもっと大きな目盛りの歴史の転換の開始を告げる年として、後年は記憶するだろう。」と予想する。
そういえば、拡大や発展や成長に限界などないように思えた無邪気な日々に、1つまた1つと不吉な影や変化の予兆が染みのように広がり始めたのがやはり1970年前後だったような気がする。
衰退する未来や将来の不安を言い立てたいのではない。むしろ逆である。高度成長期や人口爆発期の論理や感性がもはや全世界的に過去のものであるとはっきりと認識できたことにむしろ安心感を覚えているのだ。
「世界の無限」を信じた爆発期としての「近代」が過去のものとなった人間にとって、これからは「もういちど「世界の有限」という真実を前に戦慄」し、さらに「その真実にたじろぐことなく立ち向かい、新しい局面を生きる思想とシステムを構築していかなければならない。」と見田は主張する。
それは、はたしてどんな思想でどんなシステムなのだろうか?
見田による見解は『社会学入門』(岩波新書)や『現代社会の論理』(岩波新書)に詳しいが、それは、吉田健一の『旅の時間』のなかに登場する、だた「老人」とだけ呼ばれている人物の次にような言葉と通底する思想と態度のような気がしてならない。
「夕方っていうのは寂しいんじゃあなくて豊かなものなんですね。それが来るまでの一日の光が夕方の光に籠っていて朝も昼もあった後の夕方なんだ。」
ロジスティック曲線の話にはおまけがあり、生物種によっては下記のような「修正ロジスティック曲線」と呼ばれる推移を辿り、「繁栄の頂点の後、滅亡にいたる」おろかな生物種も存在するという。
「100年に一度の大不況」といわれ、右往左往しながら、我々は「夕方」を生きるにふさわしい思想と態度を模索し始めているのかもしれない。
※図版はすべて『社会学入門』見田宗介(岩波新書)から
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