失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
「スープでも魚でも、ああ、その頃の自分には英吉利語で注文して食する料理よりも、ソパと云い、ペスカドスと云った南方の発音が如何に無限の味と夢とを添えてくれたであろう。」
明治42年(1909)のアメリカにおいて、しかもというか既にというかスペイン料理への選り好みを表明していた男がいた。
その男 永井荷風は、約5年のアメリカとフランス滞在の後、約6年間、慶応義塾大学文学部教授を勤め、その職を辞した後、41歳で麻布市兵衛町(現港区六本木一丁目付近)に居を構え偏奇館と称し、そして、まるで取り付かれたように頻繁に濹東下町を訪れた。
「東京坂路地散人」シリーズ第1回は、 江戸と東京、近代以前と近代の2つに価値観に引き裂かれた男 永井" 荷風散人" 壮吉の足跡を追って、荷風が依田学海の書を携えて行ったように、『濹東綺譚』と『荷風と東京』(川本三郎 都市出版)に付された小針美男氏作成の玉の井概略図とを携えて、その舞台 墨田区東向島かつての玉の井(旧本所區寺島町)を訪ねてみた。
街の様子はもちろん様変わりしていた。ここ玉の井は空襲でことごとく灰燼に帰したといわれている。荷風が通い、そして書いた昭和11年頃の街の賑わいはもちろんある筈はない。
いちばん賑やかだったと書かれた賑本通り(現在の平和通り)は、住宅街を抜ける静かな通りに変わっていたし、大正道路(現在のいろは通り)はどこか懐かしいようなのんびりとした取り残されたような商店街だった。
とはいえ、丹念に歩いていると、表通りから一歩入ったところには、幅1メートルもないぐらいの路地が不規則に走っている。舗装もないし塀もない、どこまでが道路でどこからが敷地かも判然としないようなところも稀ではない、荷風がラビリンスと呼んだ、『濹東綺譚』の時代もかくやと想わせる狭小路地が網の目のようにが広がっているのだった。
いくつかの路地を巡り、表通りに出て、さらにまた、別の路地に迷いこむ。
主人公が足繁く通うお雪さんの家のある路地はこう描かれている。「其家は大正道路から唯ある路地に入り、汚れた幟の立っている伏見稲荷の前を過ぎ、溝の沿うて、猶奥深く入り込んだ処にあるので、表通りのラディオや蓄音機の響も素見客の足音に消されてよくは聞こえない。夏の夜、わたくしがラディオのひびきを避けるのにはこれほど適した安息処は他にはあるまい。」
その路地は平和通り側からも入れるようになっいるらしく、「ポストの立っている賑な小道も呉服屋のあるあたりを明るい絶頂にして、それから先は次第にさむしく、米屋、八百屋、蒲鉾屋などが目に立って、遂に材木屋の材木が立掛けてあるあたりまで来ると、幾たびとなく来馴れたわたくしの歩みは、意識を待たず、すぐさま自転車預り所と金物屋との間の路地口に向けられるのである。この路地の中にはすぐ伏見稲荷の汚れた幟が見えるが、素見ぞめきの客は気づかないらしく、人の出入りは他の路地口に比べると至って少ない。これを幸いに、わたくしはいつも此路地口から忍び入り、表通りの家の裏手に無花果の茂っているのと、溝際の柵に葡萄のからんでいるのを、あたりに似合わぬ風景と見返りながら、お雪の家の窓口を覗くことにしているのである。」とも描かれる。
伏見稲荷も溝も自転車預り所も金物屋もましてや無花果も葡萄棚も、今は跡形もない。しかしながら、携えていった昭和11年に荷風自らが描いた地図に基づいて作成されたという玉の井概略図を頼りに付近を歩いてみると、それらしき路地に行き当たった。
平和通りの路地口から入り、左の家の脇から入って家と家のあいだの巾1メートルにも満たない、むしろ家と家の隙間といった方が良さそうな細い路地。その路地を辿っていくと、三叉路となり大正通りから入った路地に通じているところなど、その位置といい、雰囲気いい、ここが紛れもなくその「唯ある路地」のはずだという強いトポスのようなものを感じさせられ思わずドキリとなってしまう瞬間。
実際は戦災で道路の位置が変っており、その路地は既に消滅しており、現在の路地は微妙にずれた別物なのかもしれない。
過去の地図を辿りそうした詮索を仔細にしてみたい気もする一方で、そんなことはどうでも良いような気もしてくる。人が通れるか通れないかぐらいの巾の、しかしながら日々そこを歩き暮らしてきた人々の息遣いのようなものが感じられる路地がそこに残されているという現実とそこに佇んだ時の深い感慨で既に十分なのかもしれない。
消滅と喪失を前提とせざるを得ない現代の東京散人にとって、かつての都市の姿を垣間見られる現場に立ち会うことはスリリングでかつどこか深いところで安堵感を呼び起こすような体験ではないのか。
永井荷風の近代的なものへの嫌悪と江戸趣味、そしてその延長上で濹東下町に失われた理想郷を求めたことはよく知られている。
とはいえ、当時のアメリカとフランスに渡り、最先端の欧米の知性と感性を身につけた典型的な近代人としての永井荷風にとって、当然、非近代なぞは早晩、消滅せざるを得ない運命にあることは分かっていた筈だ。にもかかわらず、あるいは分かっているからこそ、見捨てられたもの、寂しきもの、滅びゆくものへの惑溺と濹東下町を訪れた荷風。
ある時代のものを守ることなどできはしないのだ。すべからく消滅し更新し続け、常なるものなどはないのだ。しかしながら、そうして変りゆくことこそが都市の本質だとしても、都市はひとりの人間の生や意思を超えて存続しながら、変りゆく姿のなかに過ぎ去った時間と今の時間を内包しながら在り続ける。変わり果てたその相貌の裏側にかつての街の構造や骨格やあるいはその街ならではの独特の空気などを受け継ぎながら過去と現在をつなぎ、未来へと続く時間の中で生き続ける。さらに、変われば変わるほどいよいよ、かつての姿を思う人間の想像力を刺激して止まないのも都市という不思議な存在だ。
よしんば自分は消えてなくなる運命にあるとしても、少なくとも都市は自分より永く残る。気まぐれな人間の個性やいっときの時代の流れを超えて在り続ける都市という存在。
人が都市を彷徨してやまないのは、自分と同じ変化の運命にありながら、自分を超えてある都市という存在に、個人の意思や存在を超えた超越的な何ものかを見てるからではないのか。現実に厭けば厭くほど、今に不安を覚えれば覚えるほど、個性や時代を超えて在り続ける都市を歩くのではないのか。
不安と表裏一体の近代というまなざしが発見した、個人を超えた時間と空間のエクリチュールとしての都市。
人嫌いで狷介固陋で知られる個人主義者永井荷風も、実はそうしたものを求めて都市を歩いていたのかもしれない。
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