失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
六本木一丁目の泉ガーデンタワーの東側の車寄せ前からホーマットガヴァナの脇へと抜ける緩やかな坂道は御組坂と呼ばれ、荷風が虎ノ門方面へ下って銀座などへ出る際に通ったであろう坂。御組坂という名前は、この坂の先の崖下(すなわち偏奇館の崖下)に、御先手組と呼ばれた幕府警護の同心や与力の住居があったことに由来している。
現在の御組坂は、荷風が偏奇館に住んでいた時分にはなかった、偏奇館跡の石碑の建っている新設道路に分断されるかたちで、その先の偏奇館に至る坂路地が消失してしまっており、坂を下ると奥まった路地へと続いてゆく当時の面影はなくなってしまっているとともに、坂というには中途半端な高低差しかない茫洋とした印象しかない通りとなってしまっているのが残念だ。
御組坂を上りきったあたりで交差する通りは、荷風が「市兵衛町表通」と記した、住友邸や大村伯爵邸や東久邇宮邸などの邸宅の高い塀とそれ越しに覗く鬱蒼とした緑が織り成す山の手の邸宅街の典型的な風景が続いていたであろう通り。現在は、緑豊かなオープンなランドスケープが続く街並みに変貌している。かつての排他的でありながら、森閑としてどこかミステリアスな空気が漂っていた通りの面影は、現在、スペイン大使館の蔦のからまる高い塀にかろうじて見ることができる。
スペイン大使館を左手にみながら進むと、ホテルオークラを囲むように霊南坂、江戸見坂、汐見坂など、坂からの眺望風景を忍ばせる命名が残された坂に至る。
「昨来西北の風列し。市兵衛町表通東久邇宮邸外の桜樹葉紛々として雨の如く、旧大村伯邸の公孫樹(いちょう)半黄葉す。昼食後、子狗只魯(こいぬしろ)を伴い、近巷を歩み江戸見阪に杖をどどめて市街を観望す。」(『断腸亭日乗』 昭和6年(1931)11月11日)。
「初更近く門を出で江戸見阪の上に杖を停(とど)めて月を観る。」(同 昭和8年(1933)10月4日)。
荷風散人がしばしば佇んだ時分の坂からは、その名の通り東京の市街が一望できたようだが、現在は、まったく眺望はなくなってしまっている。
今や警護が厳しいアメリカ大使館前の霊南坂の中腹に小さな潜り戸のような入り口があり、そこを入ったところがオークラ公園。公園とはいいながら、ちゃんと作庭が施された立派な庭園で、ホテルオークラの所有ということでも手入れも行き届いている。知る人が少ないのか、いつ行って人気がないのがまたいい。松平大和守の上屋敷時代からのものか、2体の石仏があり、その柔和な表情を眺めなどしながら、一息つくのは現代の東京坂路地散歩の密かな楽しみだ。
坂路地散歩に疲れた時に一休みするのは、スペイン大使館裏のカフェ” M de Chaya”がうってつけだ。平屋建ての建物の前面が並木道に面した広々とした石畳のテラスになっている。高層の建物に占められたなか、この近辺では得がたいこうした贅沢なアメニティが実現したのは、この建物がアークヒルズ開発に伴う道路新設の際に残された、おそらくは他に使い道がなかった小規模不整形のヘタ地を利用して建てられているかであろう。
「快晴。緑陰清風愛すべし。午後樹下に椅子を移して鴎外全集『ギョオテ伝』を読む。」(『断腸亭日乗』 昭和3年(1928)5月30日)
「夏の日の午下この木かげに椅子引出して書を読むことを娯(たのし)みとなすもいつまで続き得べきにや。思えば心ぼそし。」(同 5月31日)
荷風が偏奇館の庭で夏の午後の読書を楽しんだように、都心とは思えないこのカフェのテラスの緑陰の下、例えば荷風の『日和下駄』へのオマージュである『東京徘徊』(冨田均 少年社)などを紐解いてみることにしよう。
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