アンディ・ウォーホルの、主体や個性や作家性を否定したかのような発言、アメリカ消費社会への素朴な賛美、つまらなそうにしながら表層的な日常と戯れる毎日、商業的な(デザインや広告)手法を駆使した表現、「ビジネス・アート」と称して積極的に金儲けに走る態度、オリジナリティという概念を否定するかのような複製や反復へのこだわり、知名度や日常性の高い題材への執着などの、いわゆる「芸術性」や「芸術的価値」を徹底的に拒否・否定しているようにみえる態度は、ある種のニヒリズムを体現しているようにみえる。
ニヒリズムとは、一般的には神の死あるいは不在が明らかになったことにより、何ごとにも否定的で虚無的な態度に陥らざるを得なくなった現代人のあり方を指して言われている。
しかしながら、フリードリッヒ・ニーチェは、神の死後に人間が陥った虚無を指してニヒリズムと呼んだ訳ではなかった。むしろ逆に、神(キリスト教)への信仰がニヒリズムを招来していると主張した。
ニーチェはニヒリズムには2つのパターンがあるといってる。1つは「受動的ニヒリズム」と呼ばれるもので、神やイディアなどある種の超越性を信じることにより、目の前の現実を否定的に捉えるというニヒリズム(前述した来世を約束するキリスト教によってもたらされた現世の否定など)、もううひとつの「能動的ニヒリズム」とは、神などの超越的存在を信じずに目の前の苦悩や生を無根拠なまま受け入れ現実を全面的に肯定するといういわば徹底的なニヒリズム。
それでは、ウォーホルのニヒリズムとはいずれのニヒリズムにあたるのか?
クールで表層的な態度の陰に実はその根拠となるある種の超越性を希求する心性が隠されていたという見方だったとしたら、あるいはある種の超越性を信じる心性が背景にあったことによって個性や作家性や時代性を超えた新しい美を創造したという見方だとしたら「受動的ニヒリズム」ということになりそうだし、一方、消費社会の表層との戯れにむなしさを覚えながらも終わりなき消費の表層こそが宿命として積極的に愛し続けた飛び切りのパーティーゴーアーという見方、あるいはある種の超越性すらも表層的に扱うことによってだれも出来なかった現代の美を創造したという見方だとしたら「能動的ニヒリズム」ということになりそうだ。
具体的な作品で考えてみると、消費社会の悲劇的な聖女をイコンとして表現した《マリリン・モンロー》は「受動的ニヒリズム」、キリストの最後の晩餐のシーンをGEのロゴマークやクラフトフーズのピーナッツのキャラクターやキャメルのラクダの絵などと文字通りフラットに共存させた《最後の晩餐》は「能動的ニヒリズム」の現れであると、いえそうだ。
ところが、こうもいえはしないだろうか。悲劇的な《マリリン・モンロー》や《ジャクリーン・ケネディ》や《電気椅子》も、しょせんは《キャンベル・スープ》や《リチャード・ニクソン》や《ブリロ》と同じような表層社会を象徴するアイコンにすぎず、究極の非表層としての人間の死すらも表層としてしか認識されないような消費社会の現実を淡々と表現し認識しようとする「能動的ニヒリズム」としての作品なのではないか、と。
あるいは、上述の《最後の晩餐》やコンバース「オールスター」にキリストの姿をプリントした《スニーカー》(欲しい!コンバースが商品化しないかナー)やシスティーナ礼拝堂のラファエルによる聖母像をベースに何故か6ドル99セントの値札が書き込まれた本人の追悼ミサの案内状の表紙にも使われた《ラファエルⅠ-$6.99》などの宗教をストレートに題材として取り上げた晩年の作品こそがカトリック教徒ウォーホルによる消費社会のリアリズムを内包した形で表現された現代的宗教美であり正に「受動的ニヒリズム」の表れといえるのではないか、と。
ウォーホルとウォーホルの作品を見ているとニーチェが主張する2つのニヒリズムがニーチェが言うほどかはっきりと区別できる態度なのだろうか、という気がしてくる。
『ツァラツストラはこう語った』はどうみても聖書のパロディのように読めるし、反キリスト教を唱えるニーチェの口調が激越であればあるほど、ニーチェ自身はキリスト本人を強く意識していたように思われる。
神や宗教による現実の生や苦悩への根拠付けを真剣に信じるほどナイーブではなく、しかしながら生や苦悩の無根拠性を永遠に耐え忍べるほど鈍感でもない。
ウォーホルのクールな態度、そしてウォーホルの作品の持つどこかなげやりでしかしながらどこか切羽詰ったような雰囲気を湛えた存在感と美しさはそうした絶対矛盾の心性の表れではなかったか。
ウォーホルの作品に我々が惹かれつづけるのは、それらが単に消費社会を虚無的に表現しているからではなく、両義的な意味でのニヒリズムを生きざるを得ない消費社会における我々の在り様を表現しているからなのだ。
ウォーホルは教会にいってもいつも柱の陰に佇んでわずかな時間しか居なかったらしい。そして教会の後はグリニッジ・ヴィレッジのフレアマーケット(蚤の市)を覗きアンティークなどを物色するのがお決まりのコースだった。
アンディ・ウォーホルのポップとは、おそらくそういう風にしか生きられない我々の生の態度を表した言葉なのだ。
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