オリヴィエ・マルシャル監督の映画『そして友よ、静かに死ね』を観てきました。
『あるいは裏切りという名の犬たち』(2007)、『やがて復讐という名の雨』(2008 ただし日本では劇場未公開)では、警察が舞台でしたが、今回はリヨンのギャングの世界が舞台です。
主人公を演じるのがジェラール・ランヴァンとチェッキー・カリョ(そうあの『ニキータ』の教官役の)の2人のフランスオヤジ。ジェラール・ランヴァンの出演の映画は初めて観ましたが、これがまた、皺と髭と白髪の3拍子そろったなかなかのフランスオヤジなのです。
ストーリーはモモンと呼ばれたロマ族出身の実在のリヨンのギャングの仲間と裏切りの物語で、モモンことエドモン・ヴィダルの自伝を基にしているのだそうです。
最後のシーンと台詞がなんとも決まっています。このシーンとこの台詞のためにこの映画はあるのだといっても過言ではないぐらい決まったラストシーンです。どっかで見たなーと思ったら、このシチュエーション、チャンドラーの『ロング・グッドバイ』だったんですね。
それにしても、オリヴィエ・マルシャルのネオ・フレンチノワール(近年に作られたフレンチ・フィルムノワールのこと)に登場するフランスオヤジたち、実にいい味出しています。前掲の2作ではダイエル・オートゥイユとジェラール・ドゥパルデューというフランスの濃い顔代表オヤジの2人が主役を張っていました。この監督の作品は、こうしたフランスオヤジたちを観るためにあるといっても決して過言ではありません。
白髪、皺、髭の3拍子、ぼさぼさの頭、ふてくされたようなやつれたような表情、憂い帯びたような眼差し、服装などには無頓着なよれよれの服、黒っぽい皮やコートを引っ掛けたどこか薄汚い感じ、やたらと煙草を吸いウイスキーをガブ呑みする姿(フランス映画のくせにワインなんかほとんど登場しません)、完全な男中心の世界、往々にして女房子供は刺身のツマ的な存在感しか与えられていません、一方でその男たちがこだわるのは、女子供はなんとしても守るというもはや流行らない騎士道的な精神。渋いなどというありきたりの表現を通り越した、実に濃厚な存在感を放っております。
もと警官のオリヴィエ・マルシャルならではのリアリティなのでしょうか、特に登場する警官たちのしょぼくれ具合やひねくれ具合がすごいのです。今回はギャングが主人公の作品なので警察を舞台にした前2作ほどではないのですが、それでも、今回の作品にもちゃんとおりました、しょぼくれたフランスのオヤジ警官が。
ぼさぼさの髪、疲れた表情、どこか納得がいかないような態度、ぺらぺらのスーツ、ノーネクタイのよれた白シャツで登場するパトリック・カタリフォが演じる敵役の刑事の主人公のギャングにどことなく共感を抱いている気配のそしてどこか投げやりな雰囲気を放っている男。
<パトリック・カタリフォ&チェッキー・カリョ>
あるいは、ちらっとしか出てきませんがその以前の上司で日本でいうと小松方正(!)っぽい感じの癖のある刑事もなかなか見ものでした。何しろ犯人にステーキが食いたくないかといって、ジョットガンを携えた武装警官を従えながら街のビストロに出向いてステーキをぱくつきながら犯人に尋問し始めるのですから。
こうしたキャラクターの造形は何を意味しているのでしょうか?それは彼らが真っ当な人生から下りた人間達、普通の生活価値観から外れてる人物であることを暗示するアイコンなのでしょう。健康や気のよさや小奇麗さなど、昨今では世界中で有り難がられている価値観とはおよそ無縁の人物であることを表しているのです。ハードボイルドの探偵が減らず口を叩くというのとちょっと似ているかもしれません。探偵の減らず口は、まともな人間関係をはぐらかしながら生きていることを暗示する仕掛けなわけです。
そして映画では、こうしたまともな人生から下りたキャラクター達が、警察社会やギャング社会などの悪徳が蔓延する掃き溜めのような世界(当然、それは警察やギャングだけの世界に留まらず、今の世の中の本質を暗示してるわけですが)の中でギリギリの状況で体現する最後の正義や人間性が描かれます。否が応でもその純粋さは際立ち、悪のなかにあっても我々は善を打ちたてるべきだ、たった一人であってもそうすべきだ、何故なら我々にはそれしか方法はないのだから、という世界観が浮かび上がってきます。
閑話休題。
オリヴィエ・マルシャルの作品は、音楽もいいんですね。なんと、今回はいきなりディープパープルの往年の「ブラック・ナイト」で幕開けです。さらに、ジャニス・ジョップリンの「ムーブ・オーバー」なんかも使われています。よくやるよなーという感じ。1959年生まれの監督はきっと中学時代からロック少年だったことを窺わせる選曲でした。
音楽といえば、前掲2作もなかなかでした。
『あるいは裏切りという名の犬たち』のエンドロールに流れるのは”Don’t bring me down”という曲。オーストラリアのSiaというシンガーです。
そして『やがて復讐という名の雨』のタイトルバックではなんとレナード・コーエンの”Avalanche”が使われているのですね。コーエンのヴォーカルの雰囲気もさることながら、この歌詞が恐ろしいほどこの作品とシンクロしていました。
そして毎度登場する車と銃などの小道具も見もののひとつです。今回1970年代の強盗シーンでふんだんに登場する車がこのシトロエンDS。
ハイドロニューマティックという独特の油圧サスペンションの搭載といい、吊り目&離れ目の宇宙船のような外観といい、前衛的でスタイリッシュでいかにもフランス車という感じですね。このシトロエンDSは当時のフランスきっての高級車としてドゴール大統領の公用車でもありました。リヨンのギャングが大統領と同じ高級車?というわけですが、まあ、常習の銀行強盗が高級車に乗っても不思議はないわけですが、ここでDSが登場するのは、同じく主人公アラン・ドロンの愛車としてDSが登場するフレンチ・フルムノワールの傑作『サムライ』へのオマージュか、はたまた、ドゴール側の私兵組織の資金集めの強盗として雇われたことが主人公達が悪の道に足を踏み入れるきっかけだったという背景への一種のアリュージョンかなどと勘ぐってみたくなるのもディテール好きの楽しみであるわけです。
最近の銃に関してはまったく疎いのですが、なにせ元警官の監督だけに銃器へのこだわりもなかなかのようです。『やがて復讐という名の雨』の原題は”MR73”というもの。このMR73とはフランスのマニューリン社製の357マグナムリボルバーの名前なのですね。あまりメジャーではありませんが、削り出し加工で作られるその美しい姿はアメリカ製のコルトなどに比べやっぱりどこかフランスぽい雰囲気を醸し出してる拳銃です。原題にもなってように、この銃が象徴的な小道具となってストーリーが展開していきます。ちなみにMR73を調べながら発見したこのMEDIAGUN DATABASE というサイト、すごいですねー。映画好きでディテール好きにはたまりません。
ところで、接続詞から始まる日本語タイトル独特の言い回しは今回もしっかり踏襲されています。ちなみに今回の作品の原題は ”Les lyonnais” (リヨンの男たち)というストレートなもの。『あるいは裏切りという名の犬たち』の原題も ”36 Quai des Orfèvres” (オルフェーヴル河岸36番地)というパリ警視庁の所在地の住所というさらにそっけないものでした。
確かに「リヨンの男たち」あるいは「レ・リヨネ」では、題名にはなりませんわな。「ハマの男たち」だったり「桜田門」が外国では映画のタイトルになりにくいのといっしょでしょうか(日本語では十分成り立ちそうですね)。言葉の持つコンテクストとはなかなか奥深いものです。とはいえ、「あるいは」、「やがて」、「いずれ」(下記)、「そして」ときたら次は一体何なのだろうかなどと今回のちょっとフライング気味の日本語タイトルを見ながらしばし考えてしまいました。
まだ観ていない監督・脚本の警察3部作のもう1作『いずれ絶望という名の闇』(2009 原題 “Diamant 13” 日本では劇場未公開)に登場するフランスオヤジ達もぜひ観てみたいものです。
copyrights (c) 2012 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。