失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
住んでいる近くに洗足池の唯一残っている水源であり、呑川支流の水源のひとつでもある湧水池があると知って見にいった。
そこは清水窪弁財天(大田区北千束1-26)といい、東京の名湧水57のひとつなのだそうだ。
周りの住宅地から一段低くなっている私有地に小さな池と弁財天をはじめ、いくつかの祠が祭られている。周囲が崖状になっているせいか、あるいは大きな木々のせいで陽の光りが遮られてるせいか、そこには周りの住宅地から隔絶された一種独特の空気が漂っている。
池は小さく、現在の湧水の水量はさほどではないようだ。滝から水が落ちているがこれは池の水をポンプで循環させているものだ。かつては谷を形成するほどの水が湧き出しており、こんこんと湧き出る水は霊験あらたかな場所として信仰を集めたのだろう。
池のあたりに立って改めて周りを見渡して見ると、この窪地は3方が崖状の斜面で囲まれているいわゆる「二級スリバチ」(『東京「スリバチ」地形散歩』 皆川典久 洋泉社 2012)の底であることに気がつく。ここは荏原台のほぼ中央に穿たれた千束の谷の終点(谷頭)なのだ。
こうして地形を意識ながら周りを見渡すと普段は気がつかないことが実感されてくる。
案内板によると縄文時代にはこの辺りまで海水が迫っていたと区史に記述が見られるという。縄文海進期といわれる時期だ。今やすっかり山の手の住宅街の赴きだが、大岡山と海、思いも寄らない組み合わせだ。東京は山の手の相当内陸に入ったエリアでも谷筋を通じて海に繋がっていたのだ。
山王や南馬込あたりにみられる台地に多数の深い谷が刻まれた荏原台の地形は、立会川と呑川の2つの川が作り出したものであるが、千束の谷はその荏原台の最も奥深くまで進入している谷筋である。大岡山とは東の千束の谷と西の呑川の流域に挟まれた南北に長い、まさに「岡」であり、そして東西の2つの谷から見ると急峻な「山」であり、「大」きな台地であることが分かる。普段はまったく気がつかないでいるが、大岡山とは荏原台の根元、最も標高が高い「山」だったのだ。
大岡山の東の谷筋を走る道路は、かつて川だったところが暗渠化(『東京「暗渠」散歩』 本田創 洋泉社 2012)されたものであり、清水窪弁財天からの湧水が洗足池そして最後は呑川を経て海にへと続く川跡だ。表通りに比べると今はマイナーな存在のこの川筋は、かつては生活用水や農業用水としてこの地域の重要なライフラインとして機能していたのだ。
人は往々にして道路や鉄道を座標軸として都市を認識し、いつのまにか平面的な広がりや近い遠いといった距離感(時間距離)で街をイメージしてしまっている。坂や川を意識はするものの、それはそこを通るその場限りの認識で終わってしまうことが多い。ましてや谷や台地などの大きなスケールの地形の存在を意識することはまれだ。
それは建て込んだ建物のせいで見通しが限られていることが原因であり、人が普通に認識できるスケール感の問題でもあり、あるいは目的地を目指すことしか頭にない普段の我々の習慣のせいでもある。
街を歩く時、谷や台地や川や坂などを意識して歩いてみよう。見慣れた風景が今までとは少し違った風に見えてくるはすだ。川跡や大きなスケールの地形からかつての街や都市のイメージが浮かび上がり、目の前の現実空間にオーバーラップするように立ち上がってくる。それは空間が時間の様相の一種 「モノになった時間」(『ランドスケール・ブック』 石川初 LIXIL出版 2012)であることを実感する瞬間でもある。
この感覚は一種の<拡張現実>Augmented Relaity的な想像力といってよく、現実の都市や空間をリジッドなものとして捉えるこれまでの空間認識のあり方に一石を投じるものだ。
なにも<拡張現実>などを持ち出すこともないかもしれない。現実を読み変え、「世界を多重化する」(『リトル・ピープルの時代』 宇野常寛 幻冬社 2011)ことに関して、我々の文化は、古くから馴染んできたではないか。
和歌・俳諧・歌舞伎などに幅広くみられる、あるものを別にものとして認識・表現する「見立て」、生者と死者が同じ時空に共存する複式夢幻能、侘び茶などを生み出した「やつし」という美意識など、日本にはまさに<拡張現実>的想像力と呼んでいい例は枚挙に暇がない。近代では永井荷風による、濹東や吉原や荒川放水路への「聖地巡礼」もそうした想像力の一種といえるかもしれない。
空間を時間の一種として認識することや現実を多重化して捉える想像力が、はたしてこれまでの都市認識やひいては空間づくりに変更を迫るものなのかどうか、実に興味深いテーマだ。
閑話休題。
せっかくなので清水窪弁財天の湧水の行方を辿ってみよう。
清水窪弁財天からの水の流れは、すでに歩道下に暗渠化されている。マンホールが異常に多い。左手の崖状の地形からここが谷底だということが分かる。右手の住宅が建ち並んでいるあたりはフラットであり、かつては川底だったと思われる。
大井町線と目黒線を越えたあたりの暗渠の上に作られた千束児童遊園。ゾウやカバなど水辺の動物が多数置かれているのは偶然なのか。
不自然な広さのインターロッキング舗装が施された歩道は、ここがかつての川を暗渠化したものであることを物語っている。
洗足池近くで水の流れが姿を現す。水は思いのほかきれいだ。
水の流れは幅を広げ洗足池に注ぐ。かつて農業用水や生活用水として使われていた水の流れはこんな姿に近かったのかもしれない。
洗足池からの水の流れは中原街道、池上線の下を通り、修景された「洗足流れ」として約1.5km続く。景観に変化があり飽きない。水は澄み、鯉が生息し、カワセミもやってくるらしい。
水の流れは東雪谷5丁目交差点を渡るところで再び暗渠化され、路地状の水路みちが続く。
最後は、横須賀線と新幹線の下をくぐり、仲池上1丁目の本村橋付近で呑川に合流し終わる。かつてはたびたびの氾濫で有名だった呑川は、すでに川底が大きく下げらたコンクリート護岸で作られたボックスのような河川になっている。
川や地形を意識して街や都市を見ると見慣れた風景が今までとはちょっと違って見えてくるはずだ。
「日常を未知なるものとして常に新鮮に捉え直す」行為を原研哉はデザインと呼んだ。
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