「漂うモダニズム」(『新建築』2012年9月号)という論考で槇文彦は建築の誕生から死までを<空間化>・<建築化>・<社会化>というキーワードで語っている。
<空間化>とは、人間の要請を空間化することであり、そこでは建築家は「人間とはなにか」、「人びとは何を求めているのか」の問題にかかわりをもたなければならないとされる。
<建築化>とは、建築家が最も時間とエネルギーを注いでいる設計の段階であり、「空間を覆う作業」である。それはその時代の技術や進歩という概念と建築家自身の欲望によって推し進められる段階である。
<社会化>とは、出来上がった建物が建築家の手を離れ、所有者や利用者やあるいは更に幅広い人びととの社会的関係性のなかで、再び建築が人間と直接かかわってくる段階とされる。
「空間化のフェイズにおいて、まず建築家はそこに参加する人びとも含めた<人間のあり方>にもっとも濃密にかかわりあう。そして建築化においては建築家の意思、あるいは技術、市場といった、より抽象化された社会意志が強く作動し、人間のあり方についての直接的なふれあいは少ない。もちろん空間化と建築化がきわめて初期の段階に同時進行していく場合は例外として。そして、社会化において、今後は建築家をぬきにして、建築と社会が人間を中心に直接かかわりあってくる。そこでは使用者、利用者はもちろんのこと、その背後にある社会的意思も参加することによって、建築と人間は再び濃密な関係を長期にわたってつくり出す。そして建築の社会的な価値はこのフェイズで確立される」
建築の社会化ということについて象徴的なエピソードが紹介される。槇文彦自身が設計したヒルサイドテラスのカフェでの光景だ。
「たまにそこに昼食にいくと、ひとりの初老の人がいつも同じテーブルに座って前方の旧山手通りの人々の往来を眺めているのを見かける。卓上には1/4瓶の赤ワインが置かれ、やがて半分位、赤ワインをあけると、やおらサンドイッチに手を出す。コーヒーも含めて、小一時間位、彼にとって儀式化された孤独の一刻を楽しんでいる。ニーチェは孤独は私の故郷であると言った。彼もそこに自分の小さな故郷を発見したのかもしれない。(中略)先に<空間化>のところで情景の構想化について触れたが、20年前ここを設計したいたときには、もちろんそんな光景を夢想だにしていなかった。人びとはこのように建築や場所の一部を身体化していく。そして<時>が個人個人のレベルを超えてひとつの社会意志を次第に形成していく」
この3つのキーワード、特に<空間化>と<社会化>という2つのフェイズは、建築のもつパブリックな使命を良く言い表している。
モダニズムとは<建築化>における革新的な技術や合理的な意匠に留まらない、<空間化>と<社会化>における人間と社会に関する論理と形式を打ち立てた思想と運動だったといえる。
本論考は表題にある通りモダニズムという「大きな物語」が喪失してしまった現在とその今後を考えた論考でもある。
モダニズムという建築の普遍語が共通言語だった幸福な時代はとっくに過ぎ去ったことが冷静に認識される。
その上でモダニズムがひとつの意匠として消費されてしまっているポスト・モダニズムの現実における建築の今後を見据えようと試みられる。
「「なんでもあり」の時代に突入し、モダニズムが巨大なインフォメーションのプールと化すとと共に、思想もスタイルも姿を消す。使命も時に一緒に」
「それではわれわれは今どこにいるのだろうか。(中略)果たしてうねりは存在するのであろうか。われわれはどこに向かって泳げばいいのだろうか。潮流はあるのだろうか」
うねりはあるのか、という自問に対して当代きっての老モダニスト槇文彦はこう言い切る。「わたしはあると思う」と。
「そのひとつは広義の新しいヒューマニズムである。(中略)対象となる建築の形態・空間に秘められた、そこで人間をどう考えたのかの思考の形式が消費されない社会性を獲得したものへの評価にある」
もうひとつとして「なんでもあり」とは「別の言葉で表現するならば、西欧中心のモダニズムも消失したのに外ならないのである」として、「新リージョナリズム」あるいは「地域的特性」が、もうひとつのうねりをつくり出す可能性として指摘される。「ル・コルビュジエは中近東、アジアあるいは南米に生まれても不思議ではないのだ」
ここでもキーワードは人間と社会と地域だ。<空間化>と<社会化>のフェイズでの前提となる人間とは、古今東西変わらない喜怒哀楽や様々な情念を有した普遍的人間像であると同時に、その場所、その地域の人間像でもあるという二重の像として存在しているからだ。
しかしながら、と思う。
「なんでもあり」とは消費社会、つまりは世界資本主義のひとつの様相である。すべてが商品化され、市場化される世界。差異のための差異が求められ、永遠のいたちごっこが続く世界。そこにおいてはたして「消費されない」ものなどありうるのだろうか?
グローバリゼーションは、世界資本主義のもうひとつの様相だ。歴史や国家や地域や文化はフラット化され相対化され、効率の論理が最優先される世界。その中ではたして「地域的特性」が発揮される可能性はありうるのか?
それは今の段階では可能性であり「重い課題」だが、「なんでもあり」の大海原だからこそゼロからの発想が可能になると希望を繋いでこの論考は終わる。
これに続くように「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」(JIAマガジ295号2013年8月)と題された槇文彦によるもうひとつの論考が発表されている。
追記に記されているようにこの論考は明らかに先の論考の建築の<社会化>に関しての具体的な問題を指摘したものだ。
新国立競技場案とは、ザハ・ハディッド設計による、バカでかい、ぬめっとした流線型の、つるっとしたテクスチャの、昆虫型異星生物のような、例の建物案だ。
9月8日に2020年のオリンピックの開催地が東京に決まって、このパースのメディアでの露出度も一段と頻度が増している。
槇文彦はこの論考で2つのことを言っている。
1つは「17日間の祭典に最も魅力的な施設は必ずしも次の50年間、都民、住民にとって理想的なものとは限らない」という問題。オリンピックが終わった後、客席数8万人の陸上トラック付全天候型スタジアムの使い勝手を歓迎するのは、破格の動員数が見込めるタレントによるコンサートぐらいしかない思いつかない。ちなみに武道館のコンサート時の実質キャパは7,500人程度と言われている。
2つめのに「さらに重要なことは」と前置きされて指摘されるのは、「濃密な歴史(★1)を持つ風致地区に何故このような巨大な施設をつくらなければならないのか、その倫理性についてである」
「倫理性」。問われているの都市をめぐる倫理なのだ。それは都市の歴史性と都市の景観と都市経営に関する倫理だ。
都市は誰のものか?
ザハ・ハディッドのスイスのバーゼルにおけるコンサートホールやチューリッヒの湖畔に想定されたラファエル・モネオの文化施設が市民のリファレンダム(注:住民投票のこと)によって過半数の反対票の結果、建設が否決された、というエピソードを紹介しながら、槇文彦はさらに問う、「日本に市民社会は成立したのだろうか」と。日本においては、封建社会の武士階級が構成した「お上」が、そのまま近代国家の官僚が支配する「お上」に取って代わっただけではないか、と。
問題は単にザハ・ハディッドと建築家をはじめとする審査委員たちの無邪気さ以上に、「お上」と市民の関係性にあるのだ。
この話題にシンクロするように、日経新聞に載った、憲法改正のための国民投票への最低投票率の導入に関する記事(「丸山真男と石破茂」 2013年8月25日朝刊)の中で、丸山真男の『日本の思想』(岩波新書1961年)のなかの「権利の上にねむる者」という節の話が紹介されていた。例えば、時効制度とは「権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しない」と言う趣旨を含意しており、それは憲法12条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」というところにも共通する精神であると説く。なぜ権利の上にねむってはいけないのか。丸山によるとはそれが「ナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年間の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓」だからである。
都市における自由と権利についても同じことだと思う。
「権利の上にねむらない不断の努力」とは何か。それは不断に倫理的であろうとする努力とほぼ同義に聞こえる。
差異のための差異を作り出し、永遠の更新運動を求める消費社会。自らが主体的に選択しているようでいて実は選択させられているのが実態の消費社会。その中で決して「消費されない社会性」があるとすれば、それを見定めるのは、ひとりひとりの倫理だ。
ひとりひとりの倫理は仮説としての倫理でしかない。しかしながら、ひとりひとりがその仮説を通して検証し行動する以外に、すべてを商品として消費しつくそうとする世界資本主義の運動に風穴を開ける方法はないはずだ。
フィリップ・マーロウが自らの倫理のみを唯一の仮説として、ロサンゼルスの街で小突きまわされながらも、20世紀における都市の真実を浮かび上がらせたように。
1963年(昭和38年)、次の年に開催が予定されていた東京オリンピックに間に合わせるように、地元などの反対意見を押し切って、江戸の水運の大動脈だった日本橋川の上空を利用して首都高速道路の高架が架けられた。それ以来、日本橋川の大半と日本橋は、高架下を流れる薄暗く埃っぽい、どこにでもありそうな川と橋となって今日に至っている。
2020年の東京でのオリンピック開催決定は、ひとりひとりが都市をめぐる倫理を考える上において、意外にも絶好の機会なのかもしれない。
(★1)明治神宮外苑は、その名の通り、内苑(明治神宮)、外苑、表参道、裏参道が一体となって計画されており、絵画館とイチョウ並木を主役とした空間構成は、日本における近代都市計画の歴史的遺産といえる。東京における風致地区第一号に指定されている。
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