失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
西小山は東急目黒線沿線のなかではどちらかというとマイナーな位置づけの駅だ。武蔵小山や大岡山のように急行が止るわけではないし、有名な商店街や大学があるわけでもない。ところがというべきか、だからというべきか、ここがなかなか奥が深い味わいのある街なのだ。
2006年に駅が地下化されて、新しく駅ビルや駅前広場が作られた。改札を出た印象はかつてとは一変したが、広場から一歩踏み出すと昔からの路地や商店街がほぼそのままの姿で残っている。
西小山の独特の味わいを作っているのは、昔からの小さな商店が密集した狭い路地に広がる商店街だ。個人経営の飲食店や食料品店が多いのもにぎわいを感じる要因だ。さらに昔からの古びた建物が現役で残っているのを見るなどするのもすこぶる楽しい。
スーパーやコンビニやチェーン店に席巻され詰まらなくなる商店街が多いなか、活気あふれる戦後の面影(おそらく)を自然に古びた形で今に伝えながら商店街として生き延びているのは大変希少なことだといえる(★1)。西小山にあっては、新しくできた駅ビルやこぎれいな駅前広場の方がどこか場違いに思えてくる。
最近はこうした昔からの店のなかに、新しい小さなコーヒー豆屋やパン屋、焼き菓子屋やエスニック料理の店などがいくつか出来ており、こうした新旧の対比の様子も活力ある現役の商店街という感じがして頼もしい。
西口から伸びるにこま通り商店街にあるいかにも昔風情の中華料理屋。残念ながら既に閉店してしまっている。
にこま通りのさらに先に続くニコニコ通りの入り口に佇む年代モノの洋服屋。「カンコー学生服」ののぼりが泣かせる。
西口の商店街から少しはずれところにあるおなじみのフルーツパーラたなか。開業昭和37年(1962年)の現役だ。
東口のアーケードの入り口に陣取る丸ニ青果。道端にあふれ出る野菜と果物。西小山は食料品の店、なかでも八百屋が多いのだ。かつて青果を扱う東京卸売市場荏原分場(現在は大田市場に統合)が近かった故か。
東口銀座通りにある八百宋。来し方を物語る崩れかけた外壁とは欠け落ちた店名は思わず見入ってしまう迫力。てっきり閉店してしまっているのだろうと思いきや、ちゃんと営業しており、写真を撮らせてもらったお礼というわけではないが思わずインゲンなぞを購う。安くてよい品だった。
東口のはずれにある洋食屋「ブラザー」。ブラザーランチ780円也。一瞬、かつて銀座1丁目にあったタイガー食堂の面影をみる。
江戸見坂へと続く東口銀座通りには、両側の街灯に西小山の歴史を記した案内版が設けられている。これが、なかなか興味深いのだが、この案内版を見て驚いた。
「恋の小山の西小山」。
狭い路地、密集する木造建物、昭和の雰囲気が残す商店街(なんと西小山には5つもの商店街があるのだ)、そんな今の西小山のイメージと「恋」というフレーズの組み合わせに違和感を抱かない人は皆無といっていいのではないか。
しかしながらその西小山にかつて花街があり、最盛期には、料亭・待合45軒、芸妓置屋42軒、芸妓は120人の規模を誇っていたというのだ。(『東京 花街・粋な街』 上村敏彦 街と暮らし社2008年)
小山という名前とは逆に西小山駅があるあたりは立会川流域の低地にあたり、かつてはほとんどは水田だったところだ。立会川沿いは水はけが悪く居住に適さないこともあり、いつからか映画館や飲食店などが集まっていたらしい。花街が出来たのはその立会川の両岸にエリアにあたる。
立会川は昭和45年(1970年)前後に暗渠化されて立会道路となっている。桜並木を背景にマンションなどが立ち並ぶ穏やかな印象の現在の通りにはかつての花街をイメージさせる痕跡はほとんどない。割烹風の日本料理屋がかつての料亭の面影を残しているぐらいだ。
いまや廃墟と化している「峠乃茶屋」と書かれた看板のここもかつての料亭の跡地。
唐突にこの手の店が点在しているのもその名残か。
それにしても「恋の小山の西小山」のフレーズの放つ違和感はどうだ。そもそも何故、西小山に花街が作られたのか?
東急電鉄の前身となった目黒蒲田電鉄が目黒~蒲田間に東京初の私鉄である目蒲線(目黒線の前身)を全線開通させたのは大正12年(1923年)11月。同年9月1日に関東大震災が起こり、東京の旧市街は壊滅的な被害を受ける。東京では私鉄の開設と折りしもの大震災による被災者の移転などが重なり、一気に郊外化の動きが起こった。
西小山の駅が開設されたのは昭和3年(1928年)5月。三業地(料亭・料理屋、芸妓置屋、待合の三業種を設置できる地域)の許可が下りたのは同年8月であり、駅開設と三業地許可はほぼ同時だった。このことは、西小山では駅の誘致と三業地認可の働きかけが並行して進められていたことを伺わせる。
大震災をきっかけに、花柳界も一流どころといわれた柳橋、新橋、赤坂や江戸からの歴史を誇る葭町(人形町)など旧市街地の花街が凋落し、当時の市街地の外側にできた新しい花街が人気を集めるようになった。西小山での三業地設立の思惑は、新興の三業地として隆盛を誇っていた五反田あたりの様子に多分に影響を受けていたと思われる。
西小山と同じ時期の昭和2(1927)年、昭和3(1928)年に新たに三業地に指定されたところは、蒲田、玉川、平井、十二社、中野新橋、池袋、立川(二業地)であり、すべて当時の市街地の外側にあたり、花街も急速に郊外化していたことが分かる。(『花街 異空間の都市史』 加藤政洋 朝日新聞社 2005年)
同書には、当時、三業地の開設や運営が一種のビジネス、農地や未開発の土地を利用した儲かる商売として成立していた様子が描かれている。三業地の認定は警視総監の許認可であり、この認可を巡って当然のこととして様々な利権を生んだ。
昭和3年といえば、永井荷風が情婦のお歌こと関根歌の頼みで三番町の待合を買い取り、新たに「幾代」という名で待合を始めさせたのと同じ年にあたる。こんな符合からも、三業が普通のビジネスとして成立していた時代を垣間みることができる。もっとも荷風の場合は商売というよりは、旦那としての甲斐あるいは個人的な趣味が目的だったのだろうが。
花街の開設は、同じ時期に進められた駅の誘致と同様に、昭和初めの新しく開けつつある郊外エリアにおける、時流に乗ったうまい土地活用の方法であり、地域の振興のための一方策だったりしたのだ。売春防止法が制定されるのは、はるか先の戦後の昭和31年(1956年)のことだ。
西小山の花街の全盛期は、昭和10年頃であり、その後は、戦時下の営業停止、戦火による被害などを経ながら、戦前の勢いはなくなったものの、昭和50年(1975)の組合解散に至るまで存続していたという。(前掲『東京 花街・粋な街』)
このあたりが小山と呼ばれる由来は、立会川の南に広がる荏原台の丘に由来している。
東口銀座通りは南にいくと江戸見坂と呼ばれる坂道となる。かつては江戸の街を一望できたのだろう。結構な傾斜が続く長い坂道だ。
江戸見坂を登ると丘の頂上付近には鎮守の森である小山八幡神社が建っている。
なるほど小山と称されるように八幡神社を頂点に江戸見坂、八幡坂、鏑木坂など荏原台から立会川に向かって下る坂道がいくつも走っている。
八幡神社の西側の一画、西小山駅からはちょうど江戸見坂を登ったあたりの高台の小山7丁目は、渋沢栄一の田園都市株式会社によって開発された洗足田園都市と呼ばれる住宅地の一画にあたる。
これは当時の田園都市株式会社が計画を進めていた計画の全体構想が記された田園都市全図と呼ばれる計画図。
当初計画では洗足停留所、大岡山停留所、調布停留所の3箇所に田園都市をつくる構想があったことがわかる。大岡山の用地は東工大に売却されたため、結局、2箇所の田園都市が作られたことになる。
田園都市といえば田園調布が真っ先に思い浮かぶが、実際は洗足地区の開発が第一号であり、田園調布に先立つこと1年2ヶ月、大正11年6月(1922年)に分譲が開始されている。目蒲線が開通する前年のことだ。
南伝馬町にあった田園都市株式会社の本社も洗足駅前に移ってくるなど、洗足田園都市は当時はすでに財界を引退していた渋沢栄一の理想を実現するプロジェクトとしてスタートした。
小山7丁目にある開発当初からの雰囲気をかろうじて留めていると思われる大きな敷地の住宅。敷地の細分化が進み、間口の狭い細長い戸建が立ち並んだ宅地やアパートなどが建てられている敷地も多いなか立派な家はむしろ珍しいくらいだ。
住み手を失くしてひっそりとゆっくりと廃墟化しつつある邸宅。
花街の坂を登るとそこには理想の郊外居住を夢見た田園都市が広がっていた。
都市が郊外に広がるなか、そこには理想の田園都市が作られる一方で盛り場や色街の郊外化も同時に起こっていたのだ。理想と欲望を乗せて私鉄は郊外へと伸びていった。
その理想と欲望を見事に同じ地域に共存させていたのが、高台と低地が入り組んだ東京西南部の特有の地形だった。
現在、立会川は暗渠化され、水の流れが失われ、水はけが悪い湿地どころか、こぎれいなマンションとブーランジュリやパティスリーなどのショップが点在する明るい桜並木の立会道路となっている。それは、理想も欲望も平準化されて「フラットなフィールド」となった今の世の中を象徴するような姿といえる。
花街が消え去り、田園都市の面影も薄らぐなか、狭い路地と戦後生まれ商店街は今だ健在だ。狭い路地に小さな商店がひしめく、ゴチャゴチャした、いい具合に古びた商店街は今では西小山の街の魅力の源だ。
大正の理想、戦前の欲望、戦後の活気、そして現在の街。残っているものも消えたものも、レイヤーのように積み重なる街の記憶。都市は空間でもあり、また記憶でもあるのだ。
(★1)『商店街はなぜ滅びるのか』(新雅史 光文社新書 2012)は、戦後が生んだ都市の装置としての商店街の社会的・政治的・経済的背景とその限界および再生の可能性について論じている。
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