第5章ではテリー・レノックスによって事件の存在が強く暗示され、緊迫した雰囲気の中で2人が対峙する。
朝の5時にコートの襟を立て帽子のつばを下ろし拳銃を手にしてマーロウの家の戸口に立つテリーはこう形容される。
With the white tired face and the scars and the turned-up collar and the pulled-down hat and the gun he could have stepped right out of an old fashioned kick-’em-in-the-teeth gangster movie.
kick-’em-in-the-teeth は’emはthemの略であり、kick sb in the teethでsbにひどい仕打ちををする、がっかりさせる、という意味。村上訳では「非情なギャング映画からそのまま抜け出してきた」となっているが、「三流のギャング映画からぬけだしてきた」というようなもう少し皮肉っぽい解釈もできるかも知れない。
面倒に巻き込まれた、10時30分の飛行機に乗るためにティファナまで車で送って欲しいというテリー。手にしている銃は君を守るためのものだ、とも告げる。
とりあえずテリーを居間に招き入れ、緊張した空気を誤魔化すように、こんな天気のいい日に寝ていたなんてどうかしているよ、寝起きが良くない体質なのでコーヒーを飲んでからにしてくれないか、ミスター・ハギンズとミスター・ヤングのコーヒーは最高だ、などと軽口をたたくマーロウ。
Huggins-Young coffeeはロサンジェルスにあったコーヒー製造メーカーだが1964年にコカ・コーラに吸収され、現在は会社としてはなくなっている。ブリキのコーヒー缶がネットで販売されている。
きちんと手順を追ってサイフォンを使ってコーヒーを淹れるマーロウの一挙手一投足が丁寧に描かれる。小説のなかでも記憶に残るシーンだ。こういう本筋に関係ないシーンに心惹かれるのもThe Long Good-byeを読む楽しさだ。ファンが多い箇所だろう。
The coffee maker was almost ready to bubble. I turned the flame low and watched the water rise. It hung a little at the bottom of the glass tube. I turned the flame up just enough to get it over the hump and then turned it low again quickly. I stirred the coffee and covered it. I set my timer for three minutes. Very methodical guy, Marlowe. Nothing must interfere with his coffee technique. Not even a gun in the hand of a desperate character.
methodには秩序、几帳面、規則正しさ、計画性という意味があり、いつも以上に神経を使ってコーヒーを淹れる自身をVery methodical guy, Marloweとやや揶揄して自画している。
何故こんな時にそんな細部にこだわるのか、その理由がその後に披露される。go intoは趣味などに凝る、こだわる、stand outは突出する、目立つという意で使われている。
Why did I go into such detail? Because the charged atmosphere made every little thing stand out as a performance, a movement distinct and vastly important. It was one of those hypersensitive moments when all your automatic movements, however long established, however habitual, become separate acts of will. You are like a man learning to walk after polio. You take nothing for granted, absolutely nothing at all.
目の前にいる銃を手にした顔面蒼白の男。一触即発の緊迫した危険な空気のなか、コーヒーを淹れる普段どおりの手順をあえて丁寧に辿ることで自らの冷静さを維持しかつ相手との間合いを保とうとするマーロウ。こうした場面をなんども潜り抜けてきたプロフェッショナルの経験値だ。
この章には先ほどのサイフォンコーヒーの詳細な描写のほかにもコーヒーにまつわる様々な表現が出てくる。
I drank my coffee as quickly as the heat would let meは「熱さが許容してくれる限り素早く」という言い方が面白い。He had the coffee inside himは村上訳では「いくらか腹におさめていた」とニュアンスを汲んだ訳となっている。I poured him some more and loaded it the same wayのloadはスラングで酒の一杯、一服の麻薬という意味があり、動詞として使い酒を混ぜる、特にウィスキーを混ぜるという意味なのだそうだ。そういえば銃弾の装填もloadであり、刺激ある一杯や一発を入れるというニュアンスなのだろう。
コーヒーを淹れ、レノックスにはslug(これもウィスキーなどの一杯を意味するスラングだ)を加えたブラックでカップを差し出す。レノックスは突然テーブルに突っ伏してすすり泣き始める。緊張が解けたと判断したマーロウはレノックスの銃を取りあげる。
It was a Mauser 7.65, a beauty. I sniffed it. I sprang the magazine loose. It was full. Nothing in the breech.
「モーゼル7.65」とは、おそらくモーゼルHScの口径7.65ミリのタイプのことだと思われる(The History of German Police Pistols というサイトによると口径7.65ミリ弾薬は当時のドイツ警察の標準制式弾薬だったらしくモーゼル製の口径7.65ミリの拳銃はM1914やその後継のM1934などほかにもあるらしいが、ここではチャンドラーがMauser 7.65と表現した拳銃はとりあえずモーゼルHScを指していた、と推定しておく。その理由は後々の章のところで書きたいと思う)。
ドイツ製のこんな感じの拳銃だ。マーロウは美しい拳銃だと評しているがどうだろうか。
Nothing in the breechというところが良く分からない。「ブリーチの中には何もなかった」とはどういう意味だろう。「私は(リリースボタンを押して)マガジン(弾装)を取り出した。弾丸はフルに装填されていた」という直前の文章から推し量ると「なかった」とは「弾丸がなかった」ということだろう。breechはリーダース英和辞典には尻やふとともや銃尾と出ている。文脈からいうと当然ここでは銃尾を意味していると解釈するのが自然だが、breech loadingと呼ばれる銃の後ろから弾丸を装填する後装式の銃の場合であれば、in the breech という表現があり得るかもしれないが、モーゼル7.65のようなオートマティック拳銃では銃尾にあるのはbolt(遊底)、あるいはbreech blockと呼ばれる部品であり、「ブリーチの中に」という表現が成立する構造にはなっていない。弾丸が装填されるのは銃身の後ろ側に設けられたchamber(薬室)と呼ばれるところだ。
ここの箇所は、正確にはchamber(薬室)とすべきところをチャンドラーは筆が滑ったのかbreechと書いてしまった、のではないかと推理したがいかがなものだろうか。
ちなみに村上訳では「乱れひとつない」となっており、breechとはおよそ関係なさそうな解釈がなされている。清水訳ではこの文章そのものが訳されていない。
その銃で誰も撃ってはいない、と事情を語り出すテリー。ティファナに乗せていってもらいたかったら余計ことは言わないで欲しい、と告げるマーロウ。何らかの犯罪行為があったとして、マーロウがそれ知りながらテリーが逃げるのを手助けしたとなれば、従犯の罪に問われ、私立探偵の鑑札が取り上げられてしまう。
“I don't want to know what kind of jam. I have a living to earn, a license to protect.”
「銃を突きつけてもよかったんだが」と凄んだそぶりをみせるテリー。マーロウは笑いながら「銃などを突きつけながらティファナに行けると思っているのかい」と言いテリーに拳銃を返す。
"Not to Tijuana you couldn't hold it on me, Terry. Not across the border, not up the steps into a plane. I'm a man who occasionally has business with guns. We'll forget about the gun. I'd look great telling the cops I was so scared I just had to do what you told me to. Supposing, of course, which I don't know, that there was anything to tell the cops."
後半部が分かりにくいが、tellingは条件を意味する分詞構文でif I told (that) I was so scared (that) ~ 「怖くて~をしたと警察に言ったとしたら」という感じだろう。
Supposing以下の文は、Supposingがthat以下につながり、「警察に言わなければならない何かがあるとしてだが」という意味だが、途中のwhichは何を受けているのかが分からずに悩む。考えられるのは後ろにあるanythingか、文全体か、だがanythingを受けるのは普通はthatであり、百歩譲ってwhichもありうるとして(実際ありうるらしい)、それにしても先行詞が後ろにある関係代名詞などあり得るのか?さらに文全体を受ける関係代名詞がその文の中にあるということなどある得るのか?疑問は深まるばかりだ。また、そのどちらなのかで、意味合いもやや変わってくる。anythingを受けているとしたら、「どんな内容かは知らないが」という意味になるだろうし、文全体を受けているとしたら「警察に言わなければならないことが本当にあるのかなんて僕には分からないが」というニュアンスになるだろう。村上訳ではanythingと解釈して「どんなことだかは知らないが」となっている。清水訳では省略されている。
耳にしてはまずいことをテリーが口走るのを押し留めながら慎重に質問しテリーから話を聞き出すマーロウ。妻のシルヴィアが逢引用でいつも使っている客用の離れでシルヴィアに何か重大なことが起こったらしいことがほのめかされる。
マーロウはそこまででテリーの話をさえぎって、以下のようなストーリーを組み立てる。今まで我慢してきたが、今朝、酔いつぶれて他の男と客用の離れにいるシルヴィアを目にして、君はついに堪忍袋の緒が切れ、家を出る決心をし、気が動転した様子で僕のところにやって来る、僕は深く考えずに友だちのよしみで君の依頼を引き受けた、と。
"Why are you doing it, Marlowe?"
"Buy yourself a drink while I shave."
「何故そこまでしてくれる?」と問うレノックス。はぐらかしてまともに答えないマーロウ。あくまでクールなマーロウ。
「君が警察に通報してくれた方が良いのかもしれない」と突然それまでと矛盾したようなことを言い出すレノックス。激するマーロウ。just in caseは念のため、for Chrissakeはfor Christ’s sakeと同義で、いいかげんに、お願いだから、という意。
"I washed the cups just in case," he said. "But I got thinking. Maybe it would be better if you called the police."
"Call them yourself. I haven't anything to tell them."
"You want me to?"
I turned around sharply and gave him a hard stare. "God damn it!" I almost yelled at him. "Can't you for Chrissake just leave it lay?"
"I'm sorry."
"Sure you're sorry. Guys like you are always sorry, and always too late."
「たしかに君は謝っているかもしれない。君のような人間はいつも謝っている、しかしいつも謝るのが遅すぎるんだ」
テリー・レノックスのこの「ゆらぎ」は、単にメキシコに逃げるのが怖くなったのか、マーロウに迷惑をかけることになるのをいよいよになって逡巡し始めた結果なのか、それとも・・・・。テリー・レノックスはいつもながら自らに降りかかった重大なことを自身の外部にゆだねようとする、どこか投げやりでなにかを諦めたような態度を取る。それは単にテリーの優柔不断な性格で片付けるにはあまりに切羽詰った感じがしはしまいか。
マーロウは自らのオールズモビルのコンバーチブルでレノックスをティファナ空港まで送る。
マーロウの車もこんな感じか。
<1953年オールズモビル98コンバーチブル>
搭乗前の空港のシーン。淡々とした周りの描写のなかに2人の会話が挟まる印象深いシーンなので少し長いが引用しよう。blank checkは文字通り白紙の小切手であり、好きに自由を意味している。C noteはスラングで100ドル紙幣を指す。
Then Terry came across the dusty gravel.
"I'm all set," he said. "This is where I say good-bye."
He put his hand out. I shook it. He looked pretty good now, just tired, just tired as all hell.
(略)
"And remember, if things get tough, you have a blank check. You don't owe me a thing. We had a few drinks together and got to be friendly and I talked too much about me. I left five C notes in your coffee can. Don't be sore at me."
"I'd rather you hadn't?"
"I'll never spend half of what I have."
"Good luck, Terry."
(略)
"Climb aboard," I said. "I know you didn't kill her. That's why I'm here."
He braced himself. His whole body got stiff. He turned slowly, then looked back.
"I'm sorry," he said quietly. "But you're wrong about that. I’m going to walk quite slowly to the plane. You have plenty of time to stop me."
He walked. I watched him, The guy in the doorway of the office was waiting, but not too impatient. Mexicans seldom are. He reached down and patted the pigskin suitcase and grinned at Terry. Then he stood aside and Terry went through the door. In a little while Terry came out through the door on the other side, where the customs people are when you're coming in. He walked, still slowly, across the gravel to the steps. He stopped there and looked towards me. He didn't signal or wave. Neither did I. Then he went up into the plane, and the steps were pulled back.
「君が彼女を殺さなかったことは分かっている。だから僕はここにいるんだ」とマーロウ。身をこわばらせるテリー。そして「すまない。しかしそのことに関しては君は間違っている。僕はゆっくりと飛行機に歩いてゆく。僕を止める時間はたっぷりある」と最後に決定的な言葉を残し、ゆっくりと飛行機に歩を進めるテリー。そのまま見送るマーロウ。
テリーとマーロウの最初の別れのシーンで第5章は幕を閉じる。しかしそれは実は「本当の意味で」最後のgood-byeだったのだ。
『ザ・ロング・グッドバイ』精読 Chapter6ヘ
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