遅れてきたシネマディクトの記録。2015年7月~12月に観た映画102本です。劇場とDVDまた2回目、3回目の鑑賞などゴチャ混ぜです。(上)上期の106本の記録はこちらを。
107.ムーンライズ・キングダム/ウェス・アンダーソン(2012)
両親や兄弟と馴染めない、仲間はずれの毎日など、変わり者としての孤独感や疎外感と、冒険と決闘と友情、キャンプ、台風の日、砂浜でのゴーゴーダンス、ミニスカートから伸びたスレンダーな脚、パンチラ、初めてのキス、理解ある大人などのイノセントな幸福感をミックスした世界は、ウェス・アンダーソン監督の理想の世界。いつもの絵画的な構図、カラフルな画面、ジオラマ的画質が楽しい。女の子との逃避行は『小さな恋のメロディ』(1971)を思い起こさせる。<7月2日>
108.重犯罪特捜班 ザ・セブン・アップス/フィリップ・ダントーニ(1973)
原作は『フレンチ・コネクション』(1971)のポパイ刑事のモデル エディ・イーガンの相棒だったソニー・グロッソ。監督は『ブリット』(1968)と『フレンチ・コネクション』の製作者。そのスタッフが再結集して作られた本作が面白くないはずはない。NYの市街地を一般車に混じってのカーチエイスがすごい迫力。最後にロイ・シャイダーの車がトラックに激突してトップがまるまる吹っ飛んで止まる、というすさまじさ。カースタントはこれまた前二作のビル・ヒックスマン。主人公の刑事ロイ・シャイダーは一匹狼ではなくてチームで仕事をしており、そのメンバーとのなにげない会話や地元の幼馴染とのちょとした交流がいい。「昔はイースト・リバーで泳げたもんだ」。黒のタートルに5ポケットのベルボトム。白いジャンパーの下にはアップサイド・ダウンのショルダーホルスターというロイ・シャイダーの姿は今見てもカッコいい。まだ薄汚れていた時代の寒々とした冬のNYも必見。<7月5日>
109.貸間あり/川島雄三(1959)
大阪の通天閣を望む高台に建つボロ屋敷に間借りする住人たちを描く群像喜劇。「八方美人で出来損ないのゲテモノ」と自らを定義するよろず屋フランキー堺にこんにゃく屋の桂小金治、おしかけ女房の淡島千景がからむ。小沢昭一、音羽信子、山茶花究、藤木悠、清川虹子、浪速千栄子、益田喜頓など、癖ありすぎの面々のとっ散らかったエピソードの数々に呆れながらも引き込まれてしまう。「花に嵐のたとえもあるさ。さよなららだけが人生だ」との川島哲学が全開だが、ドタバタがもう少し整理されたら、虚無的な厭世観が漂う『幕末太陽伝』と並ぶ傑作になっただろう。<7月7日>
110.イチかバチか/川島雄三(1963)
川島雄三の遺作。公開五日後に亡くなる。南海製鋼が鉄鋼業の再起をかけて全財産をつぎ込んだ新工場建設をめぐる喜劇。原作は山城三郎。シブチン社長の伴淳三郎と誘致に名乗りを上げるいかにもハッタリ政治家のハナ肇の余人に代えがたい配役が最高。強引、厚顔、押しの強さ、ギラギラ感全開のハナ肇が最後の最後に、実はその印象とは全く異なる人物だった、というオチは見事。プロセスのみに情熱を感じ、結果(出世)を拒否する高島忠夫のニヒリズムもなかなか。主人公の三人とも、どこか世を捨てているような雰囲気を漂わせているところが実に川島雄三らしい。<7月7日>
111.NO/パブロ・ラライン(2012)
1988年15年間軍事政権を率いてきたチリのピノチェット将軍は政権信任のための国民投票を実施する。妻に離婚された幼い子連れのノンポリ広告マンが、仕事で始めたNO派(反ピノチェット側)の宣伝活動に次第にのめり込んでゆく。ガエル・ガルシア・ベルナルがナイーブで一途な広告マンを演じる。NO側が勝ったのは宣伝の効果というよりも、すでに政権が見放されていたということなのだが、CMで世界は変わらないが、仕事によって個人は変わる、これは確かだ。<7月7日>
112.マダム・マロリーと魔法のスパイス/ラッセ・ハルストレム(2014)
南仏の一つ星のマダム・マロリーの店の前にインドから来た一家がインド料理を開店することになり、ドタバタとロマンスが始まる。ストーリーはいかにもディズニー的予定調和だが、ヨーロッパの移民問題やミシュラン至上主義のレストラン産業への皮肉などスパイスが効いて飽きさせない。旨そうな料理が白押しだが、インド人シェフがマダムを唸らせるハーブとスパイスたっぷりのオムレツが白眉。「料理とは食材の命と霊をいただくものだ」とは、インド人シェフの母親の言葉。マダム役ヘレン・ミレンの髪型とファッションのモデルはアンドレ・プットマンか。<7月9日>
113.シカゴ・コネクション 夢みて走れ/ピーター・ハイアムズ(1986)
シカゴ警察の刑事コンビによるポリス・アクション・コメディ。高架線の線路を使ったカーチェイス(実際に線路の上をガタガタいいながら車が突っ走るのだ)やイリノイ州立センターのあの巨大な吹き抜けを舞台にした銃撃戦など、ハイアムズならではのど派手なアクションが見もの。刑事に嫌気がさして休暇先のキーウエストでバーを買って、二人で退職しようとするなど、やる気がなさそうなグレゴリー・ハインズとビリー・クリスタルのコンビが可笑しい。<7月13日>
114.狼は天使の匂い/ルネ・クレマン(1973)
当時のフランス映画はかくもカッコいいという見本のような作品。「われわれもまた眠る時間がきたのに嫌がっている年老いた子供にすぎない」というナレーションが全てを言い表している。大人の永遠の寓話。有名な両切りタバコを3本立てるゲームは、賭けることがくだらなければくだらないほど、その行為の純粋さが際立つ、という本作のテーマを象徴する名シーン。最後、ジャン・ルイ・トランティニャンが戻ってきたのを見て、照れくさそうに微笑むロバート・ライアンの表情が忘れられない。二人は襲ってくる敵をそっちのけで、「チェシャ亭」と書かれた看板をどちらが先に撃ち落せるかにビー玉を賭けることに夢中になる。男女4人組のブラックタイでの襲撃シーンも忘れがたい。撮影時から癌を患っていたロバート・ライアンは本作が遺作となった。脚本はセバスチャン・ジャプリゾ。音楽はフランシス・レイ。<7月16日>
115.アンソニーのハッピーモーテル/ウェス・アンダーソン(1996)
オリジナルの13分の短編作品が認められてハリウッドで映画化された作品。当時日本未公開。頑張っているがずれてしまうやつ、自信の持てない気のいいやつなど、善悪や正邪ではうまく言い表せない微妙なニュアンスの性格設定やしょぼい連中とまぬけな計画と深刻な状況(ex.精神を病んでいる、失業、コンプレックス)のコントラストなど、すでにウェス・アンダーソンらしさが全開だ。最後にオーエン・ウイルソンが医療刑務所で「ある意味、作戦成功」とうそぶくあたりのなんとも言えない哀愁やいかに。ナイーブで自己中心的な登場人物はサリンジャーを思わせる。<7月18日>
116.雪の轍/ヌリ・ビルゲ・ジェイラン(2014)
同監督ならではの重量級の傑作。カッパドキアでホテルを経営しながら、親譲りの資産で暮らす元俳優の主人公。劇批評などもこなすインテリであり、理解のある優しい夫でもある。一方そんな夫を重荷に感じ、その影響力から逃れようともがいている妻。賃借人である貧しいイスラム家族の家賃滞納とその取り立て問題に端を発し、主人公たちの、裕福さや知性の持つ傲慢さ、無作為という残酷さ、善意に潜む偽善などが露呈されてゆく。チェーホフの作品が題材になっているそうだが、人間の奥底に潜む闇を抉り出すところなどは、むしろドフトエフスキーだ。イスラム家族の家長が妻の申し出を拒否する衝撃的なシーンは思わず息を飲む。上っ面だけの主人公の内面をあぶりだす、出戻りのシニカルな妹の存在も利いている。登場人物の心象とシンクロしているようなカッパドキアの風景も同監督ならではの魅力だ。<7月19日>
117.真夜中の刑事/アラン・コルノー(1976)
暗い情念が横溢するフレンチ・ノワール。主人公の独り者の刑事イヴ・モンタンは、フライドエッグを作りながら357マグナム弾を手作りするなど、いかにも孤独でストイックな刑事を期待させるが、実際は、若い女にメロメロになり、ストーカーまがいの行為を働いたり、そのせいで自らが捜査する殺人事件の容疑者になってしまい、揚句の果てに真犯人を思わず撃ち殺してしまうなど、ストイックさとは無縁の展開となるのが凄い。清濁併せ呑む最後はいかにもフランス。<7月21日>
118.バニシング・ポイント/リチャード・サラフィアン(1971)
全編に漂う乾いた空虚さに70年代のアメリカがよみがえるアメリカン・ニューシネマの傑作。街道にブルドーザーやパトカーが徐々に集まってくる不穏な雰囲気をとらえた冒頭の映像から引き込まれる。車の陸送屋の主人公が白のダッジ・チャレンジャーをデンバーからサンフランシスコまで15時間以内で運ぶ賭けをする。たわいもないことや偶然をよりどころとし、死に場所を探すような、主人公コワルスキーの生き方が大いなる共感を呼んだ背景には、泥沼化したヴェトナム戦争をかかえたアメリカ社会があった。主人公もヴェトナム帰還兵という設定だ。全編で轟くV8 7ℓ ヘミヘッドOHV 4バルブの唸るモーター音のようなエギゾースト・ノイズが耳から離れない人も多いのでは。ヒッピーコロニーなど当時の風俗も記録される。トラックのステージで歌うのはデラニー&ボーン&フレンズ。ラストの衝撃は忘れられない。監督はロバート・アルトマンの友人でその助手からスタートした人。<7月22日>
119.ゴーン・ガール/デヴィッド・フィンチャー(2014)
五度目の結婚記念日の朝に妻エイミーが失踪する。夫に妻殺しの容疑がかかり、同時に妻の失踪の意図とその正体が徐々に明らかになってゆく。妻は母親の書いた『完璧なエイミー』にふさわしくない自分の実人生を呪い、ふがいない経済状況と浮気をしている夫にその原因を求め、妻殺しの容疑をかけて復讐するために失踪したのだった。これだけで終わらないのが本作の凄いところ。あることで足元をすくわれた、この恐るべきサイコパス妻が、生き残りをかけて、なりふり構わぬ勝負にでる。寄りを戻し、妊娠した妻の「結婚とはそういうものでしょう」との言葉がすべてを象徴している。女は恐い。<7月24日>
120.悪童日記/ヤーノシュ・サース(2013)
戦時下のハンガリー。娘をメス犬と呼び虐待する祖母、出征した父を裏切り、別の男とくっついている母、ナチスに共感を寄せる教会の女中、堕落した神父、少年愛のナチス将校、ソ連兵に犯されて命を落とす兎口の少女など、双子の兄弟の目の前には過酷な現実しかない。兄弟は母からの手紙を焼き払い、断食やムチ打ちの訓練に耐え、人間らしい感情を封印することによって「強さ」を身につけ、過酷な現実から身を守ろうとする。祖母の卒中と服毒自殺、母の自殺など、いまや「悪童」と化した兄弟の呪いのように、禍々しい出来事が起こる。帰還した父は、国境の地雷原を越えて越境しようとする。冷淡に見送る兄弟。案の定、父は爆死し、一人はその屍を目印に地雷を避けて国境を越え、もう一人は、それらの行為すべてを無視するかのようにきびすを返す。兄弟という最後の拠りどころすら弱さと認識して捨て去るラストが、兄弟の体験した現実の過酷さを裏付けているようだ。<7月25日>
121.コンテイジョン/スティーブン・ソダーバーグ(2011)
接触感染で死に至る強力な新型ウイルスが世界中に広がるパニック群像劇。苦悩する責任者のドクター、子供の免疫の有無に不安な日々を過ごす父親、体を張って活躍する女性医師たち、パンデミックをこれ幸いと一儲けや売名を狙う人間など、群像劇による語りが臨場感を盛り上げてゆく。ドアノブ、手摺、カード支払、コップ、握手、子供への食べさせなど、日常のごく普通のものや行動が恐怖になっていく。わがエリオット・グールドも政府の方針を無視して、独自にワクチン開発の手がかりを発見するドクターとして登場していた。最後、原因が明かされるが、発端は人間による森林などの環境破壊だった、というオチ。<7月28日>
122.卒業/マイク・ニコルズ(1967)
アメリカン・ニューシネマの嚆矢たる名作。空港の動く歩道に乗るダスティン・ホフマンの不安そうな横顔を横移動で撮ったファーストシーン、教会からキャサリン・ロスを奪ってバスの後部座席に座った二人の表情から高揚が徐々に失われてゆくラストシーン。微妙にアレンジを変えた『サウンド・オブ・サイレンス』が被さるこの二つのシーンは、音楽と映像が深いところで一体化したまれに見る映画的傑作シーンだ。何回見ても戦慄を禁じえない。ちなみにS&G以外の音楽はデイブ・グルーシンが担当し、プロデュースはテオ・マセロという豪華布陣。堕落した大人を象徴しているかのようなシニカルなアン・バンクロフトが、かつては大学でアートを専攻していたと思わず口にしてしまい、表情を曇らせるシーンも、若さや純粋さの挫折を物語っており、本作のテーマを暗示する見逃せない名シーンだ。<7月30日>
124.マシンガン・パニック 笑う警官/スチュアート・ローゼンバーグ(1973)
スウェーデンの警察物マルティン・ベックシリーズの舞台をサン・フランシスコに移して映画化された作品。思わせぶりな人物がいろいろ登場して、誰が悪党か分からないなか、突然惨劇が起こるという冒頭は引き込まれる。ただし、その後の捜査の展開は、脈絡のなさとご都合主義で失速してしまう。ウォルター・マッソーとブルース・ダーンの癖のある二人の絡みも期待したほどではなかった。<8月1日>
125.合衆国最後の日/ロバート・アルドリッチ(1977)
国家意思の冷徹さを見せつけるアルドリッチならではの骨太の一本。ヴェトナム帰還兵の元大佐(バート・ランカスター)らによって、モンタナの核ミサイル基地が占拠される。犯人たちは大統領を人質にした国外逃亡と国家機密のNSC文書の公開を要求。NSC文書に記されたヴェトナム戦争の目的は、ソ連との全面核戦争を回避するためのアメリカの確固たる意思の表明であり、ヴェトナムで戦う兵士が犬死になっても止むを得ないという驚くべきものだった。文書の公開の是非をめぐって対立するホワイトハウス。犯人の要求を飲むふりをして、射殺の機会をうかがう作戦に出るが、事件は人質となった大統領も含めて全員を射殺してあっけなく幕が下りる。死ぬ間際、約束どおりに自分の死と引換えに文書の公開を求める大統領(チャールズ・ダーニング)。返事をしないまま大統領の元から離れ去る国防長官をカメラはロングで追い続ける。狙撃隊の武器がM16だったのは、最初から全員を一気に射殺する計画だった証拠だ。「大統領なんて国家の前では使い捨てさ」と犯人の何気ないつぶやきが真実をついていたという恐ろしさ。出て来る戦車がチープでがっかりするが、それは映画の内容を理由に米軍が協力を拒んだから。NSC文書のエピソードは原作にはなく、監督の強い要望で加わったものだそうだ。<8月4日>
126.ロンゲスト・ヤード/ロバート・アルドリッチ(1974)
刑務所内でのアメフト試合というキワモノを題材に、心の自由の素晴らしさを描いたアルドリッチらしい快作。バート・レイノルズが八百長で追放された過去を持つ元アメフトのスター選手を演じる。ヒモ生活に嫌気がさして自暴自棄の違法運転で収監されている。アメフト好きで専制君主の所長(エディ・アルバート)の肝いりで看守チームと囚人チームが試合を行う。負けを請け負っていた囚人チームのキャプテンのバート・レイノズルが、脅されながらも最後の最後、所長を裏切って、本気に転じ、囚人チームが実力で勝ってしまう。アメフトと自分自身に嫌気がさしているレイノルズ(かつての八百長は盲目の父親の老後資金のためだった)がいやいやながら乗り出した素人試合で自分を取り戻し、所長の言いなりだった高圧的な看守長が実力で負けたことがきっかけで個に目覚めるとところなど、ひとひねりした人間の描き方が上手い。フィールドに一人取り残される所長。もはや権力は地に落ちたことを暗示するラストの余韻が秀逸だ。<8月7日>
127.アイズ・ワイズ・シャット/スタンリー・キューブリック(1999)
キューブリックの遺作にして撮影期間最長記録(400日)の作品でもある。夫(トム・クルーズ)の「君に嫉妬したことなどない。妻として母として信頼している」との一言がきっかけで、妻(ニコール・キッドマン)が思わぬ衝動的な性的願望を告白する。激しい嫉妬心に駆られた夫は、疑心暗鬼と妄想に捕らわれ、妻に復讐するかのように、娼家に赴いたり、怪しい仮装乱交パーティーに潜入したりするようになる。夫が深夜のNYをさまようのは『2001年宇宙の旅』、あるいはオデュセイアのアナロジーだ。男女の日常の蔭には、思いもかけない修羅が潜んでおり、決してそれを見ようとしてはならない(eyes shut)ということだ。<8月10日>
128.白熱/ジョゼフ・サージェント(1973)
郡を牛耳る悪徳保安官に弟を殺されたバート・レイノルズの復讐劇。あまり緊張感がなく進むストーリーよりも、密造酒作りで生計を立てる人々、町の腐敗、ヒッピーや学生運動に悪態をつく保安官、玄関前のポーチでの団欒、汗まみれの登場人物、埃を舞い上げながらの田舎道のカーチェイス、など70年代のアメリカ南部の風景が印象に残る。『サブ・ウェイパニック』の監督。<2月5日>
129.殺し屋たちの挽歌/スティーブン・フリアーズ(1984)
ギャング仲間を裏切ってスペインに隠遁していた男(テレンス・スタンプ)、男を連れ帰るように命じられた殺し屋(ジョン・ハート)、その手下(ティム・ロス)、目撃者として拉致された女、この4人が一台の車に同乗してスペインからパリまで向かう。どこか憂い顔の殺し屋、お調子者の手下、妙に落ち着いている人質らしくない男、徐々に変貌する女など、らしさから微妙に外れた面々が醸し出す奇妙な味わいが魅力だ。「死は誰にでも訪れる。恐れるのは手際の悪い殺し屋に殺されることだ」と嘯いていた男が、いざとなったら命乞いを始め、逆に殺し屋の方が驚いてしまうなど、一筋縄で進まない展開も味わい深い。ロジャー・ウォーターズ、エリック・クラプトン、パコ・デ・ルシアなど音楽も贅沢。<8月13日>
130.荒野のダッチワイフ/大和屋竺(1967)
ピンク映画のジャンルを借りたハードボイルドカルトムービー。御殿場の荒野をロングで撮ったモノクロ映像に山下洋輔カルテットの演奏とお経のような呪文がかぶさる冒頭シーンは、当時のアングラシーンに漂っていた、けだるい情熱のようなものを感じさせ、一見の価値あり。敵が急襲する後のシーンは、主人公が死ぬ間際にみた願望なのだろうが、無念さなどが一切描かれておらずやや拍子抜け。脚本家として活躍した監督らしい台詞で引っ張る作品。具流八郎名義で脚本を担当した『殺しの烙印』も同年の作品。<2月7日>
131.ルック・オブ・サイレンス/ジュシュア・オッペンハイマー(2014)
死者は50万人とも300万人とも言われる20世紀最大の虐殺のひとつインドネシアのスハルト政権下での共産主義者虐殺の実際の加害者を捕らえた驚愕のドキュメンタリー。スタッフたちは命がけで、兄を虐殺された弟と一緒に当時の加害者を訪ねフィルムに収める。嬉々として虐殺の一部始終を語る加害者たち。悪びれるどころか、英雄と思っているのだ。生き延びた人々も過去は忘れろという。日本を始め、世界は何もしてこなかった。インドネシアでは現在も共産党は非合法であり、虐殺事件は今もタブーである。加害者側からの視点の前作『アウト・オブ・キリング』も必見。<8月16日>
132.非情の標的/セルジオ・ソリーマ(1973)
若い妻を誘拐され、ひとりの囚人を密かに脱獄させろと要求される元刑事の刑務所長。ひそかに脱獄させた囚人を伴って妻を救出するためパリに向かう。組織と警察に追われ、生死を共にするなかで、友情が芽生え始める二人。囚人は国家ぐるみの暗殺事件の秘密を握る人物であり、脱獄させたのは口封じのために抹殺するためだと分かる。囚人を引渡さないと、妻を犯人に仕立てると脅され、板ばさみで苦悩に歪む表情のこわもての巨漢オリバー・リードが暗くいて重い。正義に目覚めて告発しようとする囚人を撃ち殺してしまうという、なんとも後味の悪い結末。救出された妻さえも、真相を知らないがゆえにオリバー・リードを遠ざけてしまうラストなど、その後味の悪さは徹底している。<8月17日>
133.エディー・コイルの友人たち/ピーター・イエーツ(1972)
密造酒の元締めの名を明かさなかったばっかりに、密売の罪で捕まって公判を待つエディー・コイル。生活苦から武器密売の仲介などに手を染めている世帯やつれした中年男をローバート・ミッチャムがまさにはまり役で演じる。追い詰められたロバート・ミッチャムは、小ずるい刑事の口車に乗って、仲間を売って公判を有利にしようとするが・・・。登場人物の誰もが心を許さず、殺伐とした日常を生きている寒々とした空気が全編に漂う。普段は風采の上がらない食堂のウェイターだが、実は密造者の元締めで、ギャングと警察の両方に通じているコウモリのような男ピーター・ボイルの存在が恐い。罪を被った人物が、庇ってやった人物からはめられて、さらにはその手にかけられて殺されてしまうという結末はやるせなさすぎ。音楽はデイヴ・グルーシン。<8月19日>
134.ヤング・ゼネレーション/ピーター・イエーツ(1979)
舞台は地場産業の石切が衰退し閉塞感が漂うインディアナポリスの田舎町。主人公たち4人は高校を卒業して何をするでもなく、石切場跡にたむろしたり、自転車レースに夢中になったりしながら、ぶらぶらしている。自分と時間をもて余している様子、日常のささいな幸福感、淡い恋、何者でもないことに対する不安感や焦燥感など、思わずそうだったよなーと共感を呼ぶ青春像を鮮やかな語り口で描く。かつて花形の石切工だった父親は今では中古車販売をやっている。この父親と母親が頑固で素朴で優しくてなかなかよいのだ。<8月22日>
135.大列車強盗団/ピーター・イエーツ(1967)
各方面の専門家15人を集めて企てられた大掛かりな列車強盗を描いた一本。冒頭からジャガーMK同士のど派手なカーチェイスで目を見張らされる。轢かれそうになった警官が警棒でフロントグラスを割る、走る車から飛び降りて他の車の下に隠れる、小学生の集団に車が突っ込むなど、今まで見たこともないカーアクションは必見。本作のカーアクションが後の『ブリット』の監督として名を上げるきっかけとなったそうだ。冒頭の派手なアクションとは一転して、準備から逃亡までの強盗計画が、仲間集めの苦労や奥さんとの確執なども交えながら、淡々と丁寧に描かれるところも好印象。主人公(スタンリー・ベーカー)以外の存在が地味過ぎるのがやや難点。<8月25日>
136.刑事マディガン/ドン・シーゲル(1968)
拳銃強奪の犯人逮捕をめぐり、NY市警の現場刑事リチャード・ウィドマークと本部長ヘンリー・フォンダの確執を描く。派手な店に出入りし、情報屋と懇意にし、一見ダーティそうなリチャード・ウィドマークが、実はクリーンで正義を貫き、ルール重視の理想主義者のエリート ヘンリー・フォンダが、実は元同僚の汚職に目をつぶり、陰で浮気をしているような人物だったという、本来の役どころを演じているようにみえる二人の善悪が実は逆転しているという設定が妙味を生んでる。惜しむらくは二人の性格付けをもっと際立たせると物語りの輪郭がより明瞭になった。現場の薄給に耐えかねて切れる奥さん役のイーガン・スティーブンスは明るい色っぽさを漂わせた北欧美人。30歳台で薬物自殺したそうだ。<8月28日>
137.ジョンとメリー/ピーター・イエーツ(1969)
勢いと成り行きで一夜を共にした男女がお互いに魅かれ合っていく一日を描く。演じるのはダスティン・ホフマンとミア・ファロー。プライドの鎧の下に繊細なナイーブさを隠したニューヨーカーの心の探りあいを巧者二人が演じる。クラシックの薀蓄、螺旋階段の上にアトリエがあるモダンな住まい、有機卵や鱒料理、コーヒーはケメックスで淹れ、スフレの皿は予めオーブンで温めておかなければならない、などダスティン・ホフマンの痛いまでのこだわりが可笑しい。過剰な自意識は不安の裏返しなのだ。当時のミア・ファローの壊れそうなキュートさがたまらない。60年代のどこかのんびりしたNYの街の雰囲気もGOOD。<8月30日>
138.ライフ・アクアティック/ウェス・アンダーソン(2004)
離れていた子供と再会する父親、擬似家族的関係など、前作『ザ・ロイヤルテネンバウム』と同様のテーマが今回は海洋調査(ジャック・イヴ・クストーへのオマージュ)を舞台に描かれる。ビル・マーレイをはじめ、あまりやる気が感じられない登場人物やゆるい語り口も相変わらず。劇中、いつもセウ・ジョルジがギターの弾き語りでデヴィッド・ボウイの曲をポルトガル語で歌っているという音楽センスも出色だ。オリジナルの”Queen Bitch”をバックに埠頭を歩くビル・マーレイの許に皆が集まってくるラストシーも文句なくカッコイイ。<9月1日>
139.北国の帝王/ロバート・アルドリッチ(1973)
大恐慌時代のアメリカ、働く場を求めて列車のタダ乗りで移動する人々はホーボーと呼ばれていた。ホーボーのヒーローのリー・マービンとタダ乗りを阻止しようとする強面車掌アーネスト・ボーグナインの男と男の闘いの物語。リー・マービンは決闘相手が貨車から落ちかかると、手を差し伸べて貨車に上げ、ふたたび戦いを続けるなど、プライドと気骨の人物。つきまとっていたちゃらい若造(デヴィッド・キャラダイン)を最後、列車から川に投げ捨てるなど、若者に媚びない姿は、いかにも昔の男の映画だ。目を剥いたボーグナインの顔が脳裏から離れない。主人公のモデルは『放浪記』を書いたジャック・ロンドンがいっしょにホーボーをしていた人物だそうだ。<9月3日>
140.殺人者たち/ドン・シーゲル(1964)
ヘミングウェイの『殺人者』を下敷きに、何故男は逃げもせずに殺されたのか、という原作には書かれていない謎を解き明かすというストーリー。殺し屋自身が殺しの依頼に疑問を持ち、背後にある強奪された金の行方を探っていく課程で、徐々に謎が解けてゆくという展開が良くできている。リー・マービンとクルー・ギャラガーの殺し屋二人のプロに徹した静かな物腰が恐い。殺される男はジョン・カサヴェテス、ファムファタルはアンジー・ディッキンソン。最高にクールな名ラストシーン。腹に一発食らいながら必死で逃げようとするリー・マービン。近づく警官に発砲しようとするも、最後はもんどりうって後にひっくり返る。手にしていたアタッシェが開き、芝生に散乱する紙幣。カメラは芝生の住宅街を俯瞰するアングルへと引いてゆく。元になった『殺人者』(ロバート・シオドマク1946)も必見。<9月5日>
141.ここに幸あり/オタール・イオセリアーニ(2006)
政敵から大臣を解任された中年男が昔の仲間のところに戻り、しょぼいが気のおけない第二の人生を謳歌するという物語。最後、政敵の男も大臣を解任され、彼と一緒に公園のベンチでタバコをふかして感慨にふけるのだった。不法占拠で追い出した黒人家族と橋の下でいつの間にか酒盛りを始めているなど、監督らしい寛容さが暖かい。仲間が集まるとギターやピアノをさり気なく披露するところなどヨーロッパの教養主義を感じさせる。前二作に比べ苦さが効いていないのは、エリートからの脱落というテーマがもはやめずらしくないからということか。<9月7日>
142.カリフォルニア・スプリット/ロバート・アルトマン(1974)
ギャンブル好きの二人が借金漬けの生活から逃れるために最後の大勝負にでる。賭け手自らがサイコロを振るクラップスというゲームが出てくる。口から生まれてきたかのような男をエリオット・グールドが快演。ボクシングを見ていても競馬を見ていても、いつの間にか周りの人と賭けを始めている、強盗相手に値切りの交渉をしてしまうなど、片時もギャンブルから離れられないキャラクターが可笑しい。当初、距離を置いていたジョージ・シーガルが徐々にのめり込んでハイになっゆく様子や大もうけした高揚から冷めた後のシニカルな様子も良かった。8トラックサウンドシステムを使ったオーバーラッピングダイアローグを始めて試みた作品。<9月8日>
143.汽車はふたたび故郷へ/オタール・イオセリアーニ(2010)
監督の分身のような若者がソ連時代の故郷グルジア(監督はこのロシア式発音を拒否してあくまでゲオルギアを使う)で表現の自由に悩み、パリでは映画業界の商業主義に苦悩する。故郷に戻るシーンで映し出される高層マンション群は、変わり果てた故郷の姿の象徴だ。「故郷を再び見出そうとしてもそこに戻っていくことは不可能なのです」とは監督の言葉。今までの作品にあった諦観の果ての辿りついた日常のありふれた幸福感というテーマが遠のいて、自嘲、ペシミズム、寂寥感が漂う。黒人の人魚と沼の底に消えるラストはどこにも居場所のない「役立たず」(原題”chantrapas”の意)を象徴しているかのようだ。<9月10日>
144.いずれ絶望という名の闇/ジル・ベア(2009)
オリヴィエ・マルシャルが脚本と汚職に走る麻薬捜査官役を演じるネオ・フレンチ・ノワール。監督を手掛けた、同じような日本語題名が付けられた前ニ作「あるいは(2004)」、「いずれ(2008)」に比べ、なんで?という突っ込みどころが多く、ストリー展開も分かりにくい。警察上層へと出世している麻薬捜査官ジェラール・ド・パルデューの元妻。実は麻薬組織の手先となっている。元妻からの協力の誘いを断って何故やった?と問うパルデュー。「あなたとわたしのためよ」と元妻。この辺は実にネオ・フレンチ・ノワール的な雰囲気が漂う。ジェラール・ド・パルデューはいくらなんでも太りすぎ。コンビだった女警官アーシア・アージェント良し。<9月11日>
145.殺しのテクニック/フランク・シャイン(1966)
伊仏合作のマカロニ・ノワールの傑作。冒頭のNYのビルの屋上からの淡々とした狙撃シーンは必見。その後、数々の映画や『ゴルゴ13』などの元ネタになったといわれている。銃(ボトルアクションではなくレミントンM742ウッズマスターというセミオートライフルを使ったのは長距離の狙撃で確実に射殺するため)の組み立ての手際よさ、新聞紙を落下させて風向きを確かめる、片目にアイパッチをつける、狙撃に成功した瞬間、緊張からへたり込む、など細部のリアリティに痺れる。一旦足を洗おうとした殺し屋が、殺された兄の敵を討つため殺しの依頼を請け、パリに飛ぶ。スナイパーを演じるのはブルース・ウエッバー。屈強な肉体にどこか悲しい陰を漂わせた男。夜明けのNYのビル群、壁全面にジョゼフ・アルバースの「マンハッタン」が飾られたかつてのメットライフ・ビルなど、60年代のNYも見ものだ。<9月3日>
146.狼の挽歌/セルジオ・ソリーマ(1970)
さしずめマカロニ・ハードボイルドとでもいうべき一本。プロの殺し屋チャールズ・ブロンソンが悪女ジル・アイアランドにはまる。タイトルバックのカメラショットを挿入したヴァージン諸島でのバカンスシーンがカッコイイ。悪の組織の実態が良く分からない、悪女のはずのアイアランドが場当たり的だなどの欠点を差し引いても、狭い道でのマスタングによるカーチェイス、レースカーの狙撃シーン、シースルーEVでの無音の狙撃シーンなどアクションシーンは見る価値あり。最後、ブロンソンが逃げもせずに、おどおどする新米警官に撃たれるのはアイアランドと心中ということだ。乗りの良い音楽はエンニオ・モリコーネ。<9月14日>
147.終りなき夏(エンドレス・サマー)/ブルース・ブラウン(1966)
当時28歳の監督がカリフォルニアの若者と3人で夏と波を求めてアフリカ、オーストリア、タヒチ、ハワイを旅するドキュメンタリー。撮影に3年6ヶ月かかったそうだ。南アフリカのケープ・セント・フランシスで出会う「究極の波」。かなりの長さに渡って綺麗にブレイクしてゆくこの波は本当に美しい。純粋で邪気のない若者とアメリカ。輝かしい60年代のイコンのような作品だ。必要なのはボードとワックスとトランクス、そしていい波という、究極のシンプルさがサーフィンのかっこよさだ。<9月18日>
148.マジェスティック/リチャード・フライシャー(1974)
チャールズ・ブロンソンは、過去から逃れるように、スイカ農園で生計を立てている人物。金や権威におもねらない筋を通す性格が、ギャングの反発や恨みを買い事件に巻き込まれてしまう。ブロンソンがこだわっているのはスイカの取り入れ。やっと収穫したスイカをマシンガンで粉々にされたブロンソンがついにギャングとの対決に立ち上がる。田舎道で埃をもうもうと上げながらのカーチェイスがすごい。フォードのピックアップトラックがあわやフロントから着地しそうなほどジャンプするシーンは圧巻。最後の銃撃戦での親分を追い詰めていくブロンソンの計略も見もの。脚本はエルモア・レナード。<3月6日>
149.いちご白書/スチュアート・ハグマン(1970)
ノンポリ学生が学生運動のリーダー女性に惹かれて徐々に運動にのめり込んでゆく。最後、講堂に立てこもって”Give peace a chance”を歌う学生たちを州兵が力づくで排除してゆくシーンがきちんと時間をかけて描かれる。パフィー・セント・メリーの「サークル・ゲーム」の優しいメロディが流れ、無力さが際立つラスト。安田講堂など日本の学生運動の最後の方の過激さをイメージして観るとやや拍子抜け。CSN&Y、ニール・ヤング、ジョニー・ミッチェルなど音楽の素晴らしさは文句なし。原作はジェームズ・クネンのコロンビア大学での経験を描いたノンフィクション。<9月20日>
150.ハード・エイト/ポール・トーマス・アンダーソン(1996)
PTAのデビュー作。ダイナーの入口で座り込んでいるジョン・C・ライリーにフィリップ・ベーカー・ホールが声をかけるシーン。冒頭からミステリアスな雰囲気全開で引き込んゆく。何故、P・B・ホールが親切なのか?を唯一の謎として引っ張るストリー作りも上手い。慇懃さの陰に底知れぬ裏の世界の凄みを感じさせるP・B・ホールの存在感が圧倒的だ。自分だけを頼りに生きてきた男の背景を最小限の挿話で語るスタイルが実にハードボイルド。シャツの袖口に着いた血糊をジャケットの袖口を引っ張ってそっと隠すラストも見事。題名はクラップス(さいころゲーム)における4のゾロ目のこと。クラップスのシーンはアルトマンの『カリフォルニア・スプリット』へのオマージュだ。<9月21日>
151.2010年/ピーター・ハイアムズ(1984)
『2001年宇宙の旅』の続編。2001年の木星探査の失敗の原因を米ソ合同で調査するという筋書き。宇宙に取り残されたディスカバリー号に乗り込みHAL9000を再起動させる。HALの故障は、人間に協力すべきAIとしてのプログラムとモノリス探索を隊員に秘密にするようプログラミングされた内容が相反して、いわば「統合失調症」に陥ったことが原因だったのだ。再びモノリスが出現し、ボーマン船長も姿を現し「素晴らしいことが起こる」と告げる。木星が第二の太陽となり、地球に夜がなくなり、衛星エウロパに海が生まれ生命の誕生が予感される。地球に戻るため、ディスカバリー号とともにHALを遺棄せざる得なくなった博士(ロイ・シャイダー)は、HALに真実を告げ、HALはそれを受け入れるという泣かせるラスト。『2001年』は謎のまま終わる映画。こちらは謎を解く映画。謎は謎のままの方が楽しめる場合もあるようだ。<9月22日>
152.ブレス/キム・ギドク(2007)
裕福な夫婦の妻が夫の浮気をきっかけに、自殺願望のある妻子殺しの死刑囚に面会に行くようになる。面会室を季節の壁紙で飾り、その季節の格好で季節の歌を歌うという奇妙なやり方で死刑囚を喜ばすことに懸命になる女。常識はずれの面会を許可し、モニターで監視し続ける課長(監督自身)。女は水中で息を止めていて、少しの間死んでいた幼いころの経験を話す。二人は面会室でセックスをし、女は男の息を止めようとするが果たせない。その後、女は父親と子供と三人で雪合戦に興じ、夫婦は危機を乗り越えたことが暗示される。エロスとタナトスが交錯する奇想天外な物語を生み出す想像力は確かに稀有だが、奇想を狙って作っているという感じも見え隠れする。妻と死刑囚がセックスをしている時、タナトスからの妻の帰還を予測しているかのように、刑務所の外で夫が家族3人の雪だるまを作っているシーンは確かに凄い。<9月24日>
153.OK牧場の決斗/ジョン・スタージェス(1957)
本作の最大の見所はドク・ホリデイのキャラクター。元インテリ(歯医者)だが今は賭博師として名を馳せている。身だしなみにこだわり、髪型を気にするしゃれ者だが、その割には肝心な生に対してどこか投げやりで厭世的な雰囲気を漂わせている。結核を患っていつも咳をしているが、それを忘れたがっているかのようにウィスキーを煽る。腐れ縁でつながっている女(ジョー・ヴァン・フリート)は、ドクが死に場所を探していることを薄々気がついている。そんな自己を韜晦するならず者をカーク・ダグラスが実に魅力的に演じる。それに比べ主役の生真面目な保安官ワイアット・アープ(バート・ランカスター)は地味な役回りで終わる。原題のOK Corralのコラルとは牛の囲い場のこと。音楽はディミトリオ・ティオムキン。<9月25日>
154.ハロルドとモード 少年は虹を渡る/ハル・アシュビー(1971)
ハロルド(バッド・コート)は裕福な家の狂言自殺の常習犯の19歳の少年。モード(ルース・ゴードン)はオーストリア=ハンガリー帝国出自の79歳の老女。チラッと映される腕の刺青から強制収容所で過ごした過去が暗示される。二人は他人の葬式に参列するという共通の趣味の場で出会う。天衣無縫のはじけた生き方のモードと生の意味を見出せないでいるハロルドの交流を見守るようなタッチで描く。モードはハロルドと結ばれた80歳の誕生日に服毒自殺をする。自暴自棄になったハロルドは愛用のジャガー(ジャガーXKEを霊柩車に改造している)で暴走し、車は崖から転落する。死の間際、ハロルドは崖の上に残った。ハロルドはモードから送られたバンジョーを奏でながら軽やかなステップで丘を歩いていくのだった。死をきっかけに自らの生の意味に気づいた瞬間を描くラストが秀逸。一度、死を覗き、生を謳歌したモードとそのモードの生と死から自ら生の意味を取り戻したハロルド。こんな気の効いた台詞も。モードはハロルドから送られた指輪を海に投げ込んでこう言う。「こうしておけばどこに置いたか忘れないでしょう」。音楽はキャット・スティーブンス。<9月28日>
155.シークレット・チルドレン/中島央(2014)
人口減少の対策として作られたクローンが政権交代による独裁者の登場で社会の悪として廃絶されることになる。一夜にして運命が変わってしまったクローンたちの悲劇をオムニバス形式で描く。クローンたちは殺される運命に従う無抵抗の弱い存在として描かれる。それは独裁権力下における民衆の無力さの象徴か。あるいは創造者の前での被創造者の絶対的弱さの象徴か。その無抵抗の弱さは残酷すぎるほど徹底している。クローンからクローンを作って生き延びるというラストのオチは、複製可能なクローンだがら一回きりの生に執着が薄く、死に物狂いの抵抗をする者がいない、という風に見えてしまい、肝心のテーマがあいまいになってしまう。クローンとは挿し木のこと。<9月30日>
156.アウト・オブ・サイト/スティーブン・ソダーバーグ(1998)
胡散臭い二枚目の銀行強盗(ジュージ・クルーニー)と気の強い美人捜査官(ジェニファー・ロペス)が恋に落ちる。ひっつめ髪のJ・ロペスが美しい。恋に落ちるきっかになったのが車のトランクの中での映画談義。『コンドル』の主人公二人があんな風に親しくなるのはありえない、というJ・ロペスの台詞に映画ファンは納得。J・ロペスはJ・クルーニーの脚を撃って逮捕する。刑務所への移送時に脱獄常習犯を同乗させるように密かに仕組むというラストが楽しい。時間軸の入れ替え、都市のイメージに合わせた画面カラーなどその後のソダーバーグ作品ではお馴染みになった技法が本作でも登場。原作はエルモア・レナード。<10月2日>
157.荒野の七人/ジョン・スタージェス(1960)
黒澤明の『七人の侍』のリメイク。軽妙なスティーブ・マックイーン、愛想がないが朴訥で子供に慕われるチャールズ・ブロンソン、寡黙なナイフ使いジェームズ・コバーン、村にはやはり大金があるとの嘘を聞かされ安心した顔で死んでゆくブラッド・デクスター、どこか憎めない悪役イーライ・ウォックなど西部劇らしいキャラクターが楽しい。腕の衰えを感じ始めた皮肉屋の賞金稼ぎロバート・ヴォーン。最後、自らの早撃ちの腕を確認するように一旦、銃をホルスターに戻し、村人が捕らえられている部屋に単独突入するシーンは記憶に残る。途中で農民の裏切りなどがあり、オリジナルと同じ「勝ったのは農民だ」とのユル・ブリンナーの最後の決め台詞がいまいち効いていない。いかにも西部劇という勇壮なテーマはエルマー・バーンスタイン。<10月6日>
158.3時10分、決断のとき/ジェームズ・マンゴールド(2007)
南北戦争で片足を失くし、借金にあえぎ、いつしか家族からの信頼や尊敬も失いつつある牧場主(クルスチャン・ベール)が、賞金目当てでならず者の移送の警護を申し出る。絵を嗜み、聖書の言葉をそらんじ、巧みに女を魅了するならず者(ラッセル・クロウ)は、「生きている方が地獄だ」とうそぶく、どこか虚無に捕らわれた男。ならず者の仲間の執拗な攻撃のなか、最後まで孤軍奮闘するC・ベールの行動の裏には、長男に父親の男としての姿を見せたいとの心情が横たわっていた。それを知ってR・クロウは心が動かされてゆく。無法者は父母に捨てられて過去をもっていた。なにも誇ることがない人生を覆したい男。その賭けに自分にない生き方を見た男。捕らわれた者が捕らえる者を救うという逆転の構図の鮮やかさ。最後の最後まで魅せる終わり方にも唸らされる。原作はエルモア・レナード。『決断の3時10分』(1957)のリメイク。<10月7日>
159.ジャッキー・ブラウン/クエンティン・タランティーノ(1997)
メキシコの三流航空会社のCAで前科のある中年女ジャッキー・ブラウン(パム・グリア)は生活苦から武器商人(サミュエル・L・ジャクソン)の資金の運び屋をやっている。捜査官から逮捕され、捜査への協力を持ちかけられる。これを逆手にとり、中年男の保釈屋(ロバート・フォスター)と組んで武器商人の金を掠め取って、さえない人生から抜け出そうと画策する。往年のセクシーさに疲れが見え始めた中年女と忍び寄る老いを感じ始めたさえない中年男、そんな二人の間に生まれる強い信頼と淡い恋心。P・グリアからスペインへの高跳びを誘われるも、逡巡する様子を後姿で演じるR・フォスターが上手い。とろい殺し屋役のロバート・デ・ニーロも見もの。ボビー・ウーマックワーの”Across 110th street”をはじめ、音楽のセンスが抜群。冒頭の空港の動く歩道の横移動撮影は『卒業』へのオマージュなど、さまざまな映画へのオマージュがちりばめられている。原作はエルモア・レナードの『ラム・パンチ』。<10月9日>
160.やがて復讐という名の雨/オリヴィエ・マルシャル(2008)
『あるいは裏切りという名の犬』(2004)に続いてフランス警察の内幕を描いたネオ・フレンチ・ノワール。舞台はマルセイユ。ぼさぼさの髪、無精ひげ、薄汚れたコート姿、ワインは一滴も登場せず、ひたすらJ&Bを瓶ごと煽るなど、『あるいは』に続き、ダニエル・オートゥイユのやさぐれフランスオヤジぶりが嬉しい。娘を事故で失くし、妻は植物人間になり、本人はアルコールに溺れ、一線からはずされる。最後は腐敗しきった警察内部の連中に復讐を果たし、自らの罪に決着をつけるべく妻と一緒に心中するという、ひたすら暗く重いストーリー。改心を装って釈放される無期懲役の殺人犯の話は不要だった。カトリーヌ・マルシャルは相変わらず魅力的。原題のMR73とはマニュ-リン社製の357マグナム拳銃のこと。<10月11日>
161.祇園囃子/溝口健二(1953)
花街を成り立たせている権力関係を残酷に見せつけながら、そこに漂う独特の情緒や女たちの色香を同時に描く溝口の視点。男たちはお茶屋の女主人を通じ、言いなりにならない芸妓小暮美千代と若尾文子をお座敷から締め出し、その権力を思い知らせる。花街の力関係に精通し、男たちの権力を媒介しながら、底辺の女たちをじわじわと追い詰める女主人浪速千栄子が圧巻だ。一方で小暮に邪険にされる落ちぶれた馴染み客(田中春男)、娘の若尾を舞妓に出しながら金の無心をする病いと老いが忍び寄るしたたかな父親(近藤英太郎)など、その力関係の網の目は、一筋縄ではいかない。小暮や若尾の和服姿の目を見張るような美しさは、悲哀や悲惨と表裏一体の前近代ならではの情緒なのだ。<10月12日>
162.ビューティフル・マインド/ロン・ハワード(2001)
ノーベル経済学賞を受賞した天才数学者ジョン・ナッシュの半生を描く。大学時代から統合失調症を患い、ソ連の暗号解読の極秘任務に就いているとの妄想に取り付かれている。妄想の出来事や人物が現実の一部であると思わせるサスペンスフルな展開が巧みだ。この天才と狂気の人物を演じるのはラッセル・クロウ。上手い。原作では本人のとんでもない事実(ex.学生時代に妊娠させた女性と子供を捨てた)も書かれているそうだが、映画ではこうしたドロドロしたところが省かれ、変わり者だが共感を得られる人物として描かれる。ナッシュ夫妻は2015年5月に事故でタクシーから投げ出されて死亡。最後まで破天荒な人生だった。<10月13日>
163.荒野の決闘/ジョン・フォード(1946)
ワイアット・アープ役のヘンリー・フォンダの不器用で生真面目で土臭さを感じさせる西部男ぶりがなかなかいい。ヴィクター・マチュアのドク・ホリデイは少し堅すぎ。西部の町のちょとした日常の描き方が上手い。馬から下りて埃だらけの顔と手を洗うシーン、ヘンリー・フォンダがポーチのロキングチェアに座って、片足で柱を蹴るようにのけぞった格好で所在無げに過ごしているシーン、床屋の帰りにガラスに映して髪形を気にするシーン、教会の完成を祝う日曜日のダンスシーンなどなど。悪役クレイトンの親玉を演じるのはウォルター・ブレイン。この人が演じると悪役でもどこか憎めない。<10月14日>
164.許されざる者/李相日(2013)
オリジナルは西部劇という映画空間で描かれてきた暴力や善悪や罪の問題を「賞金稼ぎ」のクリント・イーストウッドが問い直したアカデミー賞受賞作品。リメイクの本作はオリジナルとはまた別の魅力を放つ力作。舞台を明治初期の蝦夷(北海道)に移し、逆賊として明治政府から追われる旧幕臣の人切り十兵衛(渡辺謙)を主人公に、賊軍やアイヌや女郎など、負けた立場の者、虐げられた者が犯さざるを得なかった罪を問う。己が討たれるまで雪原さまようしかない十兵衛のラストは、まさに許されざる者を象徴している。賞金稼ぎに復帰するきっかけの説得性の弱さとハッピーエンディングの納まりの悪さというオリジナルの持っていた弱点も上手く乗り越えられている。逆に佐藤浩一演じる警察署所長に奥行きがない。むしろ國村隼演じる今や賞金稼ぎに身を落としている、新政府になじめない長州武士が単純に割り切れない、維新をめぐる武士の思いを感じさせる。<10月15日>
165.フランキー&アリス/ジェフリー・サックス(2010)
黒人ストリッパーのフランキーのなか存在する凶暴な白人の人種差別主義者のアリスという人格。二つの人格を持った解離性同一性障害の主人公の苦悩をハル・バリーが演じる。アリスの存在のきっかけとなった不幸な過去が明らかになり、最後は共存の道が選ばれる。それはアリスの不幸な出自をフランキーが認知することでアリスがおとなしくなった、あるいはフランキーがアリスを制御することができるようになったということなのか?実話ということだが、なかなか難しい結末だ。<10月16日>
166.レザボア・ドッグス/クエンティン・タランティーノ(1992)
自主製作版を観たハーヴェイ・カイテルが気に入って、ハリウッド作品としてリメイクしたタランティーノ監督のデビュー作。とっぽいギャング5人+ボスが宝石強盗に失敗し、仲間割れしていく物語。心理や感情描写の欠如、錯綜する時間、大胆な省略(肝心の強盗シーンがない)、即物的、過剰さ、残虐シーンなど早くも個性全開だ。ジョージ・ベイカー・セレクションの「リトル・グリーン・バック」の音楽にあわせて黒づくめの男たちをスローで撮った冒頭シーンのかっこ良さは伝説的だ。スティーブ・ブシェミが全力疾走で逃げるシーンも大迫力。元ネタは『血とダイヤモンド』(福田純1964)とのこと。こちらも是非観たい。<10月17日>
167.アウトロー/クリント・イーストウッド(1976)
南北戦争の末期、北軍の名を借りたならず者に妻子を殺されたクリント・イーストウッドがひとり北軍に投降することを拒否して、追っ手が迫るなか復讐を果たす物語。インディアン、夫をなくした妻子、ゴーストタウンと化した街の住民など、戦争の弱者たちがイーストウッドの逃避行に加わって、擬似家族のような様相を呈し始めるというのが面白い。ジョン・ヴァーノン演じる北軍に投降した南軍ゲリラが、負けた者の悲哀と矜持を感じさせる。ヴァーノンは北軍にはめられて部下を失った自責の念に駆られている。イーストウッドを討つことを命じられ、追っ手に加わりながらも、逆にイーストウッドから撃たれて死ぬのを望んでいた。ヴァーノン以外の追っ手を撃ち殺した後にイーストウッドはヴァーノンに言う。“I gess we all died a little in the damn war”。お互いが味わった喪失感とともに「もう死ななくてもいいんだ」といっているのだ。<4月6日>
168.拳銃王/ヘンリー・キング(1950)
拳銃の腕を上げれば上げるほど、自分を倒して名を上げようとする若者や復讐しようとする者から狙われるという、腕の立つガンマンの孤独な宿命を描いた西部劇。グレゴリー・ペックが、競争に疲れ、足を洗いたがっているNo1の拳銃使いと噂されるジミー・リンゴを演じる。リンゴは出直そうと妻子に会いに来ているのだが、妻子はなかな決心がつかず、リンゴに復讐しようとする敵方が迫ってくるという時間との戦いを組み込んだ良く練られた脚本。「35歳なのに時計も持っていない」など台詞も気が利いている。最後、若造に後から撃たれれたG・ペックは、自分が先に抜いたことにしてくれ、といって拳銃王という生き地獄から解放され安心して事切れる。右側のホルスターに逆向きに拳銃を差して左手で抜くクロスオーバー・ドローと呼ばれる拳銃捌きが見られる。<10月20日>
169.ア・ホーマンス/松田優作(1986)
最後まで観るのがつらい、目を覆いたくなる作品。実験的な試みは独りよがりに終わっており、ミニマルな語り口は効果を上げていない。凡庸なアクション、これみよがしな音楽、人物造形は魅力を感じさせない。風(ふう)と呼ばれ謎の主人公(松田優作)がロボットだったという最後には思わず失笑してしまう。<10月22日>
170.ワーロック/エドワード・ドミトリク(1959)
ならず者で困っている町が執行官として腕利きの流れ者を雇う。町は平定されるが、その力づくのやり方が徐々に恐れと反発を生み、よそ者として疎まれ始める。赤狩りと転向で苦悩したE・ドミトリクらしい、人の善悪とは、民意の危うさ、弱さゆえの罪などを内包する異色西部劇。力を信じる自信家のヘンリー・フォンダ。その相棒のギャンブラーのアンソニー・クイン。ならず者の一味だったが、悪事に倦んで副保安官となったリチャード・ウィドマークの三人を巡る一筋縄ではいかない展開が見どころだ。A・クインは足が悪く、そのせいかH・フォンダに依存(同性愛的な感じも)する屈折した性格の難しい役を巧みに演じる。H・フォンダが結婚して引退しようとしていること知ると、その遠因となったR・ウィドマークを狙ったり、最後はH・フォンダの引退を阻止しようとして対決になり、わざと撃たれて殺される。A・クインを撃ったことで自責の念から自暴自棄になって町に火を放つH・フォンダ。町を出て行けというR・ウィドマークと対決になり、勝負では2丁拳銃で圧倒するも、銃を投げ捨て女とも別れて町を去る。物語とともに善悪が入れ替わっていくような人物造形も類を見ない。E・ドミトリクはロシアからのウクライナ移民。赤狩りで証言を拒否。RKOを解雇され逮捕される。出所後、転向してジュールズ・ダッシンを共産党員だと証言した過去を持つ。<10月23日>
171.実録 連合赤軍あさま山荘への道程/若松孝司(2007)
彼らはいったいなにを求めていたのか?新左翼運動の行き詰まりから、内向きの権力闘争が激化した結果の悲劇といわれているが、今からみると稚拙としか思えない思想や愚かとしか思えない総括の本当の理由は、映画を観てもさっぱり分からない。ということは、今では理解不能な、あの時代にあの立場にいた者が陥っていたなんらかの陥穽があったということか。1972年2月19日あさま山荘たてこもり、2月28日機動隊突入。<4月12日>
172.現金に体を張れ/スタンリー・キューブリック(1956)
キューブリックが27歳で撮ったハリウッド第一作にして傑作。それぞれに癖のある5人が競馬場での現金強奪をたくらむ。時間軸を戻しながら、同じ場面を異なった視点から繰り返し描くことにより、徐々に真相が明らかにゆくという展開によって、不安な宙吊り感とぞくぞくするようなサスペンス感が生み出される。繰返しインサートされる競馬馬の疾走シーンやドキュメンタリータッチによる張り詰めた緊張感も見事。かろうじて生き残ったスタンリー・ヘイドンは恋人と一緒に高跳びしようとする。飛行機に積み込まれる寸前でトランクが落下し、鍵が開き、滑走路に現金が散乱する。それを見ていた二人はそ知らぬ顔で空港から逃げ出そうとするが、タクシーがなかなか捕まらず、気がついた警官がこちらに向かってくるショットにTHE ENDがかぶさる。観る者に犯罪の成功を望むように仕組まれたシナリオとその期待を一瞬で裏切るこのラストの切れ味には唸らされる。<4月18日>
173.パルプ・フィクション/クエンティン・タランティーノ(1994)
タイトル通り、通俗的な犯罪映画のクリシェをモチーフにしたオムニバス的群像劇。映画はテーマではなくて語り口とドライブ感だとでも言いたげなタランティーノ監督ならではの、映画の歴史のなかに身を置きながら、映画の可能性を拡張する渾身の作品。ストーリーに無関係だが不思議と魅力的な台詞のオンパレードが、有名俳優演じるヘンテコキャラクターに息を吹き込み、彼らの人生が動き出す。それにしてもジョン・トラボルタのツイストはイカしすぎ。相変わらずのセンス抜群の音楽。The Lively Onesが演奏する”Surf Riders”のサックスが昔風の気分を盛り上げる。時間の流れがシャッフルされた展開の元ネタは『現金に体を張れ』あたりか。<4月19日>
174.たそがれ酒場/内田吐夢(1955)
戦争の影が落ちる大衆酒場を舞台にした一夜の群像劇。酒場は2階にあり、中2階の舞台があるという空間構成が面白い。それを移動長回しで店内を舐めるように見せる冒頭のカメラワークが斬新だ。戦争画を描いていたことを理由に筆を折った老画家(小杉勇)の演技とは思えないようなトツトツとした語りが狂言回しとなって、戦争の影を引きずる登場人物たちの群像劇が展開する。窓外から流れる「歩兵の本領」に元軍人が思わず唱和するが、実はメーデーのデモだったというあたりがなかなか上手い。過去のわだかまりを捨て老人と経験者が若者の将来の礎になるというラストに戦後の未来志向が感じられる。<10月30日>
175.ケイン号の叛乱/エドワード・ドミトリク(1954)
下士官たちの叛乱罪を問う軍法裁判で、クイーグ艦長の精神異常を暴き、無罪を勝ち取った弁護士のフォセ・フェラーが、祝賀の席に現れ兵士たちに言う。「俺は罪悪感で気分が悪い。俺や君たちがなに不自由なくこの国で暮らしていた時、それを守るため前線で戦っていたのはクイーグ船長のような人物だった」と。根底に横たわっているのは、赤狩りで挫折と屈辱を甘受せざるを得なかった監督自らが抱く、アメリカのエリートや民衆への複雑な思いだ。フォセ・フェラーはユダヤ人という設定であり、ドミトリク自身はロシアからのウクライナ移民だ。艦長役のハンフリー・ボガートの演技は必見。<11月1日>
176.ハーツ・アンド・マインズ/ピーター・デイヴィス(1974)
日本では劇場公開が見送られ、初公開が2010年というヴェトナム戦争を扱った必見の衝撃ドキュメンタリー。時系列的に語るのではなく、総体としての映像によって見る者にヴェトナム戦争のイメージを喚起するように編集されている。マクナマラ国防長官、W.W.ロストウなど、当時の『ベスト&ブライテスト』の本人たちが直接語る映像のインパクトは大きい。例えば、ウェストモーランド将軍は不可解そうな表情でこう言う。「東洋人は命を軽く考えている」と。東洋人は自分たちとは異なる生物だとも言いたげなこの映像は、彼らのなかにあったアジア人蔑視の思想を浮かび上がらせる。ドミノ理論やテイクオフ理論など当時席巻していた理論やイデオロギーのあまりの空疎さにやるせなさを禁じえない。ある帰還兵の「自由を求める人々に戦術やテクノロジーでは勝てない」とヴェトナム人の「ヴェトナム人は食う米がある限り戦い続けるだろう」とは同じことを言っているのだ。プロデュースはバート・シュナイダー。<11月2日>
177.アンドレイ・ルブリョフ/アンドレイ・タルコフスキー(1967)
イコン作家の創造の苦悩をいくつかのエピソードで象徴的に描く。巨大な鐘作りのエピソードは感動的で忘れがたい。父親からの秘伝を受け継いだという鋳物師の息子の少年が大公の命の鐘作りを請け負う。命をかけた鐘作りに成功して泣き崩れる少年。実は死んだ父親は何も秘伝などは残さなかったとルブリョフに告白する。嘘をつきながらでも現実にしがみついて生き残ろうとする生。殺人の罪を償うために筆を折って無言の行で世界の傍観者となっていたルブリョフは、これをきっかけに、再び筆を執ることを決意する。「人間は現実を生きることによって、有限性を克服する可能性を得るのだ」。エピローグで映し出されるイコンは、色彩豊かで豊穣さと幸福感にあふれている。映画本編の苦悩に満ちたイメージとは正反対というところが面白い。<11月3日>
178.アメリカン・スナイパー/クリント・イーストウッド(2014)
イラク戦争で160人を射殺したことでアメリカのヒーローとなった実在する伝説のスナイパーの物語。冒頭の少年と母親を射殺するシーンが衝撃を呼んだ。4回の従軍とその後PTSDで苦しむ姿が抑えたタッチで描かれる。最期は同じPTSDで苦しむ人物から銃撃されて死亡するという非業の死を遂げる。葬儀は帯びただしい数の星条旗で埋め尽くされる。使命感に燃えたヒーローの活躍と悲劇は、特別な国アメリカの挫折と終焉を描いたようにも見えるし、そうした尊い血であがなわれ続けるアメリカの神話を描いたようにも見える。<11月4日>
179.シェフ 三ツ星フードトラック始めました/ジョン・ファヴロー(2014)
製作・脚本・監督・主演とひとり4役で作った作品。ロスの離婚暦のある中年シェフが、マンネリ料理を求めるオーナーとグルメブロガーの酷評に切れて、レストランを首になり、フードトラックで一からやり直す。マイアミ~ニューオリンズ~テキサス~カリフォルニアとアメリカ西南部を縦断しながらのご当地旨い物紹介を兼ねたロードムービー仕立てというアイディアが秀逸だ。フードトラック開業に駆けつける元部下のラテン系ジョン・レグイザモと息子との3人の泣き笑い道中が見どころ。キューバサンドを筆頭に旨そうな料理のオンパレードにも目が離せない。なかでも主人公が息子のために作るグリルド・チーズサンドは絶品。わがチキテオでも実作を試みております。ブロガーやSNSが力を持っているという今風の構図なども押さえた脚本もなかなか。エスニック色と地方色がミックスしたアメリカのもう一つの魅力を見せてくれる。物語のモデルでもある屋台で成功した韓国系元シェフのロイ・チョイが料理指導している。<11月5日>
180.帰らざる河/オットー・プレミンジャー(1954)
マリリン・モンローがセクシーさに頼らない役を初めて演じた作品。紆余曲折の後、夫を失ったマリリン・モンローは、酒場歌手に戻って客の前でRiver No Returnを歌っている。直前の魅力的なジーンズ姿と濃い化粧で着飾った痛々しい姿が対比される。今観ると、最後までセックス・シンボルとしてしか認められなかったモンロー自身の運命とどうしてもダブって見えてきてしまう。別れたはずのロバート・ミッチャムが現れ、モンローを抱きかかえ酒場を抜け出し家路へ向かう。路上には脱ぎ捨てられた赤いハイヒールが残されていた。このラストの情感もやはりM・モンローが演じたからこそ。筏での川くだりは迫力あり。<11月7日>
181.ウィンチェスター銃’73/アンソニー・マン(1950)
父を殺した兄への復讐劇と西部を征服した銃として名高い名銃M1873をめぐる数奇な運命劇を92分にぎゅっと詰め込んだ名脚本。ジェームズ・スチュアートは、一見優男っぽいが、芯の強さと誠実さが上手くバランスして、意外に西部劇に合っている。いつもJ・スチュアートから提案を否定される相棒ミラード・ミッチェルがいい味出している。煙を上げる馬車の車輪、ブリキのコップで旨そうにコーヒーを飲むシーン、岩をかすめる弾丸のリアルな描写など西部劇はディテールがしっかりしていると面白さが倍化する。<11月10日>
182.アルマジロ/ヤヌス・メッツ(2010)
ISAF(国際治安支援部隊)のアフガニスタンのアルマジロ基地に駐留するデンマーク軍の若い兵士たちの軍務に密着したドキュメンタリー作品。人を殺した直後の若い兵士が興奮した様子が生々しい。また、腕を打たれたショックで呆然自失の兵士の表情もリアルだ。戦場の兵士は平和な本国から孤立して、殺さなければ殺されるという戦場の論理に落ち込んでゆく。兵士を責めることはできない。多くの兵士が再び戦場へと帰ってゆくのは、平和な地に居場所がなくなってしまうということか。軍に不都合なエピソードも映像化されており、ここまでリアルな取材ができたのは、軍内にISAFに反対する勢力があったことを窺わせる。<11月11日>
183.ミリオンダラー・ベイビーズ/クリント・イーストウッド(2004)
悔恨に悩み苦しみながらも自らの頑なさから抜け出せない三人の人間。そうした男と女の痛いばかりの孤独とぎりぎりでの友情や愛情を描いた秀作。慎重な方針を頑なに守るために有望選手が離れてしまうボクシングジムの老オーナー(クリント・イーストウッド)。その頑固さ故か娘とは音信不通になっている。影のように傍に寄り添うジムの雑役夫は、過去にペアを組んだことのある老ボクサー(モーガン・フリーマン)。老ボクサーはイーストウッドの忠告を無視して戦い続け、片目を失明し負けた過去を持つ。悲惨な生い立ちから抜け出そうとボクサーを志願しジムの扉を叩く31歳のウエイトレス(ヒラリー・スワンク)。ボクシングにのめり込むしかない女の孤独を知ったイーストウッドは、女をつわものボクサーに育てていく。必死で自分に食らいついてくるH・スワンクに娘の姿が重なってくる。皮肉なことに、タイトルマッチで卑怯な相手の反則行為でH・スワンクは全身麻痺の重症を負ってボクサーをあきらめざるを得なくなる。H・スワンクは何度も自殺を試み、安楽死を望むようになる。頑固なH・スワンクの思いが分かるイーストウッドは、ついに信仰(アイリシュ・カトリック)を裏切り、H・スワンクのチューブにアドレナリンを注入して街から姿を消す。頑固さゆえにお互いに孤立しながら、それでもどこかで信頼しあっている孤独な人々の描き方がいい。例えば、イーストウッドからの給金をわざと賭け事に浪費し、いつも穴の開いた靴下を履いているM・フリーマン。イーストウッドの好意を拒否し、なけなしの賃金から懸命に小銭を貯め自らのスピードボールを手に入れるH・スワンクの頑固さも筋金入りだ。安楽死をかなえてやるラストは、倫理や信仰の問題以上に、人のどうしようもない頑なさと孤独に由来すると見るべきだ。<11月12日>
184.捜索者/ジョン・フォード(1956)
インディアンが兄一家を惨殺し、末娘(ナタリー・ウッド)をさらってゆく。弟のジョン・ウエインは、兄一家に引き取られていたインディアンの血が入った若者と末娘を奪還すべくコマンチ族を追う。J・ウエインは、南軍くずれ、兄嫁をめぐる兄との確執、インディアンに偏見を持ち残忍な仕打ちも辞さないなど、屈折した孤独な人物として描かれる。この役柄をJ・ウェインはことのほか気に入っていたとのこと。ワイドスクリーンのカラーで撮られたモニュメント・ヴァレーの風景が美しい。雪が舞い散るシーンがある西部劇というのも新鮮。平穏が戻った家庭に居場所がないJ・ウエインは、再び荒野の彼方に去ってゆくラストの余韻が忘れがたい。<11月14日>
185.KAFKA/迷宮の悪夢/スティーブン・ソダーバーグ(1991)
世間から隠遁するように生きていた作家カフカが友人の死をきっかけに反権力活動に関わってゆく。ドイツ表現主義的な光と影のモノクロ映像で描かれる、どこか中世の面影が残るプラハの佇まいが暗く美しい。神経質そうで顔面蒼白眼光鋭利なジェレミー・アイアンズのカフカはなかなか。冒頭の友人が謀殺されるシーンは恐い。権力を前に自分を誤魔化して生きることにしたカフカは、結核による咳のなか、確執のあった亡き父に向けてあなたをようやく理解できた旨の手紙をしたためるラスト。これは権力に対するフランツ・カフカのペシミズムを象徴しているのか。<11月16日>
186.昭和残侠伝/佐伯清(1965)
昔ながらのテキヤと振興ヤクザの間のマーケット建設をめぐる争いに端を発して、最後、止むに止まれず高倉健と客人の池辺良が相手方に殴り込みをかけるという展開。流れるのは健さん歌う『唐獅子牡丹』。このお定まりの展開に何度みても酔えるのは、その根底に、権力VS民衆、滅び行く旧世界VS勃興する資本主義システム、法治VS任侠(自己犠牲による正義の完遂)という、今だに乗り越えられていない日本の近代の矛盾が横たわっているからだ。ご隠居役の三遊亭圓生の型にはまった立ち振る舞いと言葉遣い。この人が登場すると画面の空気が昔かたぎに一変する。<11月19日>
187.紳士協定/エリア・カザン(1947)
紳士協定とはコネチカットの住宅地におけるユダヤ人排斥のための暗黙の了解のこと。記者のグレゴリー・ペックは、ユダヤ人のふりをして、そこで初めて見えてくる差別の実態を記事にして告発しようとする。クリスチャンと偽っているユダヤ人の秘書が、現実的な生き方ができない同僚のユダヤ人を毛嫌いしているなど、一筋縄ではいかない現実が描かれる。編集長の娘で、そもそも反ユダヤ主義の記事の発案者だったリベラルなドロシー・マクガイアが、自らに影響が及びそうになると途端に事なかれ主義に変わるところなども、実に上手く描かれている。G・ペックの友人のユダヤ人役ジョン・ガーフィールドは差別発言を聞き流すことは差別に加担していることと同じだと主張する。J・ガーフィールドは赤狩りがもとで39歳で早世している。脚本のモス・ハートはユダヤ人。日本初公開は40年後の1987年。何故?<11月20日>
188.あのころペニーレインと/キャメロン・クロウ(2000)
15歳でローリング・ストーンズ誌の記者になった監督の自伝的作品。ロックファンにはたまらないネタが満載の一本。「ベッドの下に自由を見つけて」と言い残して家出する姉の言葉で、主人公はベッドの下からロックアルバムを見つけロックに目覚める。おなじみのロックの名盤が現れるところなど感涙ものだ。親子の確執、独立、自由の希求、出会い、友情、恋、仲間割れ、和解、再会、自殺など思春期の出来事を余すところなく描いた青春ものでもある。不仲になったバンドメンバーがエルトン・ジョンの「タイニー・ダンサー」を全員で歌って和解するシーンは泣かせる名シーン。そのバンド「スティル・ウォーター」のモデルはオールマン・ブラザース・バンドだそうだ。技術指導は監督と友人のピーター・フランプトン。主人公の師匠的存在としてレスター・バングスという反骨の評論家が登場する。パンクという概念を作った実在の人物で「偉大な芸術家は罪悪感や憧れから生まれる」、「評論で成功したかったら正直になれ。手厳しくいくんだ」など名アドバイスをくれる。フリップ・シーモア・ホフマンがはまり役で演じている。<11月23日>
189.渡り鳥いつ帰る/久松静児(1955)
永井荷風の『にぎりめし』、『春情鳩の街』、『渡り鳥いつ帰る』の3篇を久保田万太郎が構成した荷風初映画化作品。荷風らしい作品に仕上がっている。空襲の際に妻と行き別れ、今は娼家の女将(田中絹代)のヒモに身を落としているダメ男に森繁久彌。煮え切らない、小うるさい、ずるい、鼻の下が長いなど相変わらずのダメ男ぶりが見事だ。娼婦の淡路恵子は、病気の同僚に冷酷な女将に復讐するかのように、森繁を誘惑し行方をくらます。飼っていた小鳥が死んでいるのを発見した森繁はコートのポケットに死骸をそっと忍ばせる。そんな死骸に執着している森繁に淡路は呆れ返り、もともとその気もなかったこともあり、森繁を捨て失踪してしまう。死んだ小鳥は真っ当な暮らしをしていた戦前をあきらめ切れない森繁のナイーブな心情と不甲斐なさを象徴しているのだ。戦後に馴染めない男と新しい時代を生きる女を対比させた鮮やかなエピソード。小鳥の死骸を水葬するといって堀切橋(まだ木造だ)から転落して命を落とすラストは哀れを誘う。淡路恵子の気性の激しいモダンな色っぽさを漂わせた娼婦役も必見。<11月25日>
190.7月4日に生まれて/オリバー・ストーン(1989)
人は自らの過ちを自らのなかで定位させることが最も難しい。その過ちによる負が大きければ大きいほど。トム・クルーズは自ら信じて志願したベトナム戦争で負傷して若くして半身不随の身になる。映画は自らの過ちと犠牲が無駄だったことを納得し、では、自分はどう生きるべきかを確立するに至る葛藤のプロセスをじっくり描く。腫れ物をさわるような態度の家族や恋人への悪態、安穏な場所からの反戦運動への嫌悪、不具になったことへの呪い、英雄気取りの戦友たちとの対立、酒への逃避etc。ベトナム戦争の場合、帰還兵が祖国の英雄どころか、ある時点から社会のやっかいもの扱いされたというところが痛ましさを増幅している。メキシコにある戦傷者向けの娼婦街で出会った同じ戦傷者のウィレム・デフォーとの確執を通じて、自暴自棄になり自堕落から抜け出せない負傷兵たちの悲惨さに気がつき、ベトナム反戦運動への参加を自らの生きる道として選ぶ。民主党大会の演説を壮大なクライマックスとして演出したラストは、オリバー・ストーンにありがちな過剰ぎみな印象が否めない。反戦歌としての『あのジョニーはもういない』(Johnny I Hardly Knew Ye)が、南北戦争に由来する凱旋歌『ジョニーが凱旋するとき』(When Johnny Comes Marching Home)と同じメロディーというところに戦争という現実に対峙した時の民衆の本音を想像させて止まない。<11月26日>
191.昭和残侠伝 死んで貰います/マキノ雅弘(1970)
シリーズ第七作。高倉健は料亭の先代の息子。父が後妻を娶ったのをきっかけに渡世の道に入るが、父の死を知って戻ってくる。亡くなった義妹の嫁婿が料亭の二代目となっている。先代からの板前の池部良の勧めもあり、高倉健は息子だということを隠し料理人として奉公することになる。盲目の義母は高倉健の料理を口にして、息子だと気がつくが、気がつかないふりをする。変わってしまった現実を前に、立ちすくむ母と息子。その背後にある不在の父。嫁婿が博打の借金のかたに店を抵当に取られたことに端を発し、先代への恩義から池部良が相手方への殴り込みに向かい、高倉健も実質の跡取りの責任としてそれに加わる。「ご一緒願います」の池部良の名台詞が有名。待つ女藤純子、コメディリリーフ長門裕之など脇役の充実も見逃せない。<11月27日>
192.アニー・ホール/ウッディ・アレン(1977)
引用される「自分が入れるようなクラブには入りたくない」“I would never wanna belong to only club that would have sonemone like me for a menber”とのグーチョ・マルクスの言葉どおり、自己韜晦、自己愛、自己嫌悪のアマルガムの果てのひねくれが極まった自らの性格の滑稽さを客観的に笑い飛ばした作品。こうした語り口が共感を得ているのは、ユダヤ人なのにユダヤ人嫌い、インテリなのにインテリ嫌いのチビでハゲのウッディ・アレンだからこそ。本物のマーシャル・マクルーハン、トルーマン・カポーティ、ポール・サイモンが出ているのをお見逃しなく。<11月29日>
193.悪魔のはらわた/サム・ペキンパー(1997)
ドイツ軍の視点から東部戦線を描くという希少な設定の一本。ドイツ軍兵士のジェームス・コバーンは、軍隊にもヒットラーにも不服従を貫き通しているような兵士。彼が戦うのは唯一戦友のためだ。そんな兵士が存在したのか?という疑問はあるが、戦争という圧倒的現実に巻き込まれたなかで、何を拠り所として生きていけばいいのかという思考実験と考えればにわかに現実味を帯びる。ソ連の戦車T-34(ユーゴ軍のものだそうだ)を相手に退却しながら地雷をキャタピラーに巻き込ませて潰しにかかる戦い方は痛快だ。ラストのJ・コバーンの高笑いが耳に残る。ジェームズ・メイスン、マキシミリアン・シェルがドイツ軍将校を演じている。迫力ある戦闘シーンから発想したと思われる日本語タイトがきわもの的イメージを流布してしまったのが残念。ちなみに原題は”Cross of iron”(鉄十字章)。<12月1日>
194.蝶の舌/ホセ・ルイス・クエルダ(1999)
1936年スペインは総選挙で人民戦線(共和党+社会主義者)が勝利する、同年、本土およびスペイン領モロッコでフランコ率いる軍が叛乱を起こし、王党派とカトリック教会が支持し、スペインは内戦に突入する。共和党派は王党派によって拘束されることとなる。初老のグレゴリオ先生(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)の姿もその中にあった。驚くモンチョ少年。少年の家族は、父親の転向をアピールするため、連行される先生に「アテオ(無神論者)!赤!」という言葉を投げつけ、少年も石もて追う。少年の言葉に衝撃を受け、なんともいえない悲しい表情をする先生。自由や教育に対する希望を打ち砕くような残酷極まりないラスト。スペインのその後の重苦しく長い歴史を暗示してかのようだ。前半のクリッとした奥目の好奇心にあふれたモンチョ少年と先生の無垢な交流が最後の残酷さを際立たせるという構成が見事だ。<12月3日>
195.黒部の太陽/熊井啓(1968)
60年代の土建国家日本の記録のような映画。独立プロの三船プロと石原プロが五社協定に阻まれるなか、本作品を作った意義は大きいが、その見返りが電力会社とゼネコンがスポンサーとなって国が推薦した映画となった、ということも忘れてはならない。逆にいえば、そうしたテーマを選んで作ったともいえる。映画人としては、トンネル内に水が溢れパニックになるあの大迫力の事故シーンを撮りたかっただけなのかもしれないが。黒四では犠牲を出さないと再三、繰り返され、結局は映画のなかでは明示されないまま終わるが、実際は171名もの犠牲者を出している。土方を人間と思わない旧世代の親方(辰巳柳太郎。川島雄三『わが町』のベンゲットのターやんへのオマージュだ)を笑えない杜撰さだ。三船も裕次郎もやっぱりサラリーマン役ではどこか不完全燃焼の感じだ。三船敏郎の娘の日色ともゑの死は、死んでいった土方の鎮魂のための生贄なのだろう。<12月6日>
196.西部戦線異常なし/ルイス・マイルストン(1930)
第一次大戦が舞台の物語だが、およそ戦争というものの実態のすべてが描かれている傑作。愛国心を発揮して志願しろと説く教師、戦時下の人々の高揚した気分、汚く寒く空腹の前線、シェルショック(砲弾神経症)による精神や神経の錯乱、銃後の社会の無理解と兵士の孤独。ゆがむ顔、落ち着かない目、震える手、痙攣が止まらない身体など、絶え間ない砲撃の恐怖とショックで徐々に錯乱していく若い兵士たちの描写がリアルだ。塹壕を水平移動で撮ったカメラワークや塹壕の中から仰ぎ見るように撮られた構図など、その臨場感は、今、観てもまったく古さを感じさせない。砲撃が収まり静寂が戻った塹壕のなか、主人公ポール(リュー・エアーズ)が飛来した蝶に手を伸ばした一瞬、フランス兵に狙撃されて命を落とすという、静と動が鮮やかに対比されたラストも秀逸だ。<12月10日>
197.放浪の画家ピロスマニ/ギオルギ・シェンゲラヤ(1969)
37年ぶりのリバイバル上映。グルジア(ジョージア)はワイン発祥の地。8,000年の歴史があるそうだ。ドゥカンと呼ばれてい食堂のような居酒屋がよく登場する。ピロスマニはこうしたドゥカンでのワインと食事と引換えに絵を描いて放浪生活をしていた。他の客に誘われても合流することはなく、店主から滞在を持ちかけられても「鎖を付けられることは嫌いだ」と断る。ピロスマニの絵は素朴だが、静かな力強さや、どこかシュールな孤独を感じさせる絵だ。映画の人物像も映像もまさにこのピロスマニの孤高の絵画的世界を映像化している作品となっている。絶妙な色彩や構図が見事だ。<12月13日>
198.プライベート・ライアン/スティーブン・スピルバーグ(1998)
本物の音源による銃声や銃弾による風切り音、腕が飛び、脚がなくなり、内臓が飛び出す負傷兵の描写、ヘルメットを貫通する銃弾、血に染まる海辺など、冒頭20分のリアルな戦闘が話題になった。ドイツ戦線からライアン二等兵を探し出す任務を負ったミラー大尉(トム・ハンクス)以下、8人の部下の行動が決め細かく描かれる。戦闘経験がないアパム伍長が恐怖で動けなくなり仲間を見殺しにし、安全だとわかった途端、手を上げているドイツ兵を射殺するなどのエピソードも今までの戦争映画にはなかったつっこんだ描写だ。ライアン救出作戦に意味があったのか?と問いたくなるが、重要なのは救出部隊とライアンたちが一緒になって橋を巡る攻防に立ち向かったこと、ということだろう。戦争に意味などない、一旦、戦場に駆りだされたら仲間と一緒に戦うことしかできない。<12月14日>
199.青べか物語/川島雄三(1962)
東京に倦んだ作家の森繁久彌は橋を渡り、昔の漁師町の暮らしが残る浦粕の下宿に隠れるように住み始める。浦粕の人々との交流と群像が描かれる。浦粕の人々は、全く無垢なところなどなく、無遠慮で猥雑で無神経で押しつけがましく、しかし正直でエネルギッシュというのが川島雄三らしい。「ここではないどこか」への願望とその見事な挫折。とはいえやはりそこは「ここ」ではない「ユートピア」だった。係留船での老船長左朴全の悲恋の昔話に聞き入るところなど名シーンだ。森繁のややぶっきらぼうな抑えた演技に疲れた都会人の味わいが漂う。東野英治郎と加藤武のバカ笑いの二重奏、市原悦子のずうずずうしさ、左幸子のあっけらかんとした色気、山茶花究は珍しくドスの効いた元ヤクザ者を演じる。ひっきりなしに埋め立ての土砂を運ぶトラックが行き交うなか、森繁は再び橋を渡り東京へと帰る。「ユートピア」の消滅が暗示されるラスト。浦粕=浦安は埋め立てられ、ディズニーランドとなった。原作は山本周五郎の自伝的作品。<12月16日>
200.シン・レッドライン/テレンス・マリック(1999)
太平洋戦争の激戦地だったガダルカナル島を舞台に、戦争のリアル感をかつてない映像的想像力を駆使して描く傑作。戦争の日常の中にも、戦闘や軍隊生活とは全く無縁に、さまざまな思いが去来するひとの心の「世界」があり、美しく生命力にあふれた自然の「世界」が存在している。それらは同じ時空のなかにありながら決して交わらない。その交わらなさの感触こそが、人が戦争に抱くリアルな現実感なのではないか、そんな風に思わせる作品。ジム・ガヴィーゼルは、捕虜になることを拒み、日本兵に射殺される。まるで交わらない違和感を抱いたままの最期だ。シン・レッドライン(薄い赤い線)とは第一次大戦のクリミア半島戦線でイギリス歩兵が2列横隊でロシアの突撃を撃退した際のイギリス歩兵の制服が緋色だったことに由来し、転じて堅固な守りや少数の勇敢な人々のことを意味するのだそうだ。たぶんに反語的な意味で使われているのだ。<12月18日>
201.理由なき反抗/ニコラス・レイ(1955)
戦後のアメリカの絵に描いたような幸福な中流家庭にもすでに新たな不幸(貧しさでなく豊かさからくる不幸)が潜んでいることを語った先駆けの一本。ジェームス・ディーンは当時23歳。その独特のナイーブな存在感は今日まで唯一無二だ。プロモーション映像に登場する本人は、はにかんだような、すねたような、それでいて自由気ままな、映画の主人公以上に魅力的だ。アメ車、ジーンズ、大きな牛乳瓶、タイトな赤いジャンパーなどが公開当時に放っていた輝きは、今ではもう理解できない彼方まできてしまった。とはいえ、マグレガー社のナイロンアンチフリーズは今なおカッコいい。<12月19日>
202.わが青春に悔いなし/黒澤明(1946)
前半の滝川事件とゾルゲ事件を下敷きにしたという軍国主義下の政治的エピソードは深みがなく、原節子の魅力もイマイチ。恋人がスパイ容疑で逮捕・獄死してからの後半は、自らの選択の正当性の証のように、あるいは世界に復讐するかのように、恋人の実家の村に身を寄せてスパイの陰口を叩かれながら、百姓女になって信念を貫く原節子が俄然輝いてくる。黙々と田植えをするラストシーンは迫力あり。男っぽい顔立ちの原は、こういう役の方がむしろ色気が際立つ。村で疎外される様子を村人の顔のモンタージョで表現したシーンやピクニックの駆けっこを望遠のスローモーションで捉えたシーンなど意欲的な映像が見られる。<6月9日>
203.マンハッタン/ウディ・アレン(1979)
ウディ・アレンの独創性は、1)しょぼくれたインテリ男の視点から描く普通の人が暮らすNYの素晴らしさ。2)自身の性格を客観的に話題する面白さ。前妻役メリル・ストリープ曰く「ユダヤ的進歩主義者。男性優位主義。自己陶酔。人間不信者」。3)容姿や性格とは正反対の性的マッチョという可笑しさ。モノクロのマンハッタンが美しい。<12月25日>
204.シド・アンド・ナンシー/アレックス・コックス(1986)
悲惨で哀しく美しい、不思議な愛の物語り。現実はどうかはともかく、ゲイリー・オールドマン演じるシド・ヴィシャスはその可能性のひとつを垣間見させてくれる。パンクとは現実の気分的否定だ。ラストでシドがラジオを持った子供たちといっしょにマンハッタンの対岸の空き地で踊るシーンはポエジーを感じさせる名シーン。『マイ・ウエイ』を初めとする劇中に登場するセックス・ピストルズの曲はすべてG・オールドマンが歌ったのだそうだ。雰囲気あり。ナンシー・スパンゲン役のクロエ・ウェブがあまりにおばさんぽいのがつらい。<12月26日>
205.波止場/エリア・カザン(1954)
八百長に手を染めてボクサーを諦めたマーロン・ブランドは波止場の悪徳ボスの片腕の兄のコネで仕事にありついているものの、投げやりな生を送っている。八百長は兄の計画だった。屋上でひとり鳩と戯れるシーンが孤独感を物語る。そんなM・ブランドが、ボスに兄を殺されたエヴァ・マリー・セイントとの出会い、孤軍奮闘する神父の姿、仲間の死、兄との確執などを経ながら、徐々に正義に目覚めてゆくプロセスをじっくりと描く。ボスとの身体を張った一対一の決闘で、瀕死になりながらも立ち上がるM・ブランドの姿に、見て見ぬふりをしていた労働者たちがついにボスを見限る行動に出るラストは感動的だ。悪徳ボスはこの手の役では余人に代え難いリー・J・コッブ。その迫真の演技は必見。公聴会でボスの不正を証言するマーロン・ブランドの姿に重なるのは、エリア・カザン本人の赤狩りでの密告証言への贖罪の意識か、はたまた自己弁護か。<12月27日>
206.情婦/ウイリアム・ワイラー(1958)
意外な展開、どんでん返し、さらにそれが覆される、という展開が見事な一本。老女殺害の容疑で裁判にかけられる失業者タイロン・パワー。無実を信じ弁護を引き受ける弁護士チャールス・ロートン。意外にも妻マレーネ・ディートリヒが検察側の証人として夫の有罪を証言する。コックニー訛りの下品な女が現れ、妻の証言の「嘘」を弁護士に明かす。女は実は変装した妻ディートリッヒなのだが、何度見ても判別できない見事な変装に脱帽。妻のアイバイ証言は採用されないことを逆手に取った夫婦による策略だったが・・・・。病み上がりながら禁じられている葉巻や酒をこっそりやろうとするなどC・ロートンが茶目っ気のある頑固な重鎮弁護士を演じる。対する口うるさく世話を焼くお目付け役の看護婦エルザ・ランチェスター。実際に夫婦だった二人の息の合った掛け合いが本作に人間味のある雰囲気をもたらしている。原作はアガサ・クリスティ。<12月28日>
207.ゴーストタウンの決闘/ジョン・スタージェス(1958)
保安官ロバート・テイラーがリチャード・ウィドマークを獄中から助け出す。二人は南軍くずれの強盗仲間だった。南軍くずれのひねくれ感、怨念を抱えた人物をR・ウィドマ-クがはまり役で演じる。拳銃を向けられても、いつものニヤニヤ顔で悠然と佇む不敵な姿は真骨頂。Gジャンにスカーフという軽快ないでたちもカッコいい。今は敵対する立場にいながら昔の仲間との腐れ縁を捨てきれない南軍くずれの連中の複雑な心境が伝わってくる。異常性格者ヘンリー・シルヴァ、人の良さが残るロバート・ミドルレンなど脇役も充実。主人公のR・テイラーは完全に食われてしまっている。ラストの対決のあっけない幕切れはやや不満が残る。<12月29日>
208.日曜日には鼠を殺せ/フレッド・ジンネマン(1964)
ファシスト政権に投降せずに、隣国フランスの田舎で無聊をかこつ、もはや老境に入ったスペイン共和派のゲリラのグレゴリー・ペック。その許に旧知の仲間から母危篤の手紙が届けられる。ファシスト政権の警察署長アンソンー・クインはこの機を利用して帰国するであろうG・ペックの逮捕を目論む。政権への裏切り行為になることに悩みながらも「罠だから帰ってくるな」との母からの遺言を伝える役目を引き受ける王党派に属するカトリック神父のオマー・シャリフ。「強盗(かつてゲリラ戦でファシスト派の財産の強奪をしていた自らのこと)と裏切り者(手紙を届けた者)は生き延びる」と自らの身をシニカルに評するG・ペックの言葉に「本当にそうだろうか」と疑問を呈するO・シャリフ。神父を厄介払いしながらも、署長の罠にあえてはまるようにG・ペックはスペインに帰り、手紙を届けた旧知の仲間を射殺し、母の病院に突入し憤死する。「何故、罠だと知って帰ってきた?」と署長。帰らない場合に窮地に陥る神父のため、自らの信条の限界を誤魔化して生きてきた生き方に終止符を打つため、死に場所を求めて母の許に戻った、署長と裏切り者のどちらを先に撃つかと迷った揚句に何故、裏切り者を撃ったのか、など観る者に老ゲリラの心中へと想いをめぐらせ、さまざまな感慨を刻み込むラスト。まるでマリオ・ジャコメッリのようなコントラストの強いモノクロ映像で映し出されるフレンチバスクの風景が美しい。映画原題は「蒼ざめた馬を見よ」、日本題名は原作のKilling a mouse on Sundayから採られている。「安息日に鼠を捕った猫は月曜には吊るされる」というピューリタンの戒律の厳しさを揶揄した昔の戯詩からきているそうだ。教条主義化する政治や宗教を含意しているのか。<12月30日>
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