第18章では、ロジャー・ウェイドが残した手がかりのドクターV候補の最後の一人をマーロウが訪ねる。
三人目のドクター・エイモス・ヴァーリーは、大きな古い屋敷で、寝たきりの金持ちの老人相手の施設をやっている。頭の禿げ上がった大柄の男が気さくな笑顔でマーロウの前に現れる。condescend to~は、気さくに~するという意。
A nurse in crisp white took my card and after a wait Dr. Amos Varley condescended to see me.
crispは、カリカリ、パリパリ、さくさくのような食感を表すほかに、パリパリ音がしそうな、手の切れるような、すがすがしい、こざっぱりとした、という意味でも使われるのだそうだ。ちなみにwhiteは単独で白衣を意味する。「パリッと音がしそうなほど糊のきいた白衣」が脳裏に浮かんでくるようだ。
マーロウのドクター・ヴァーリーの評。armourは甲冑の意。
"What can I do for you, Mr. Marlowe?" He had a rich soft voice to soothe the pain and comfort the anxious heart. Doctor is here, there is nothing to worry about, everything will be fine.He had that bedside manner, thick, honeyed layers of it. He was wonderful-and he was as tough as armour plate.
後半のthick, honeyed layersという比喩の意味がわかりにくが、読み進むうちに、「何層もある柔和で慇懃にみえるうわべ」が少しづつ剥がれてくるというその後の展開のなかで、自ずとその言葉を使った比喩の効果が発揮されるという仕掛けになっている。
以前、あなたが当局と麻薬でいざこざを起こしたと、あるリストに載っていたのだがと探りを入れるマーロウ。
"And how did you hear it, Mr. Marlowe?" He was still giving me the full treatment with his smile and his mellow tones.
「どのようにお聞きになられたのでしょうか。ミスター・マーロウ?」。この段階ではドクター・ヴァーレーは、微笑みとメローな口調の慇懃な物腰を崩していないが、マーロウが問い詰めていくと、魅力ある人物にみせていたレイヤーが徐々に剥げ落ちていく。
リストの出所のカーン協会の名前を聞き出そうとするドクター・ヴァーレー。
"His name?" The sun had set in Dr. Varley's manner. It was getting to be a chilly evening.
"Confidential, Doctor. But don't give it a thought. All in the day's work.Name of Wade doesn't ring a bell at all, huh?"
"I believe you know your way out, Mr. Marlowe."
The sun had set in Dr. Varley's manner. It was getting to be a chilly evening.というのもチャンドラーならではの気がきいた表現だ。「ドクター・ヴァーレーの態度においては、すでに日は沈んでしまっていた。冷え冷えする夕暮れが訪れ始めた」。
村上訳は「ドクター・ヴァーレーの物腰は一変していた。温かみはすでにその地平線に没し、ひややかな宵闇が姿を現していた」。
清水訳はこうだ。「ヴァーリー医師の周囲を照らしていた太陽が沈んだ。冷たい夜になった」。
「態度において日が沈む」という日本語にならない箇所を上手く補足した一文を加え、ややセンチメンタルな比喩を使った村上訳とやや強引な比喩だが、原文の畳み込むような短いセンテンスの感じを極力活かそうとした清水訳。どちらの味わいも捨てがたい。
don't give it a thoughtは、「深く考える必要はありません」、「気になさらなくて結構です」という慣用句。All in the day's workも「よくあることです」という慣用句。憶えておくと便利そうだ。
「帰れ」といわれても、なかなか引っ込まないマーロウ。相変わらずの減らず口によって、ついにドクター・ヴァーリーの装う甘い最後のレイヤーが剥がれ落ちてしまう。
"Okay by me, Doctor. Thanks for the time. Nice little dying-in home you got here."
"What was that?" He took a step towards me and peeled off the remaining layers of honey. The soft lines of his face set themselves into hard ridges.
Okay by meが出てきて、ロバート・アルトマン監督の映画『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールド扮するマーロウの口癖”It’s OK with me”を思い起こしてしまった。もしかしたら、脚本のリー・ブラケットはここから、あの秀逸な台詞を発想したのかもしれない。もっとも映画の台詞はエリオット・グールドの独り言として口にされるもので、ままならぬ状況をしぶしぶ自分に納得させる、というニュアンスであり、そのちょっぴりやるせない感じの台詞回しは、リー・ブラケットの創造だろう。
原作でのニュアンスは、一連のことを自分として納得したという意味で「わかりました、ドクター」(村上訳)ということだろう。とはいえ「わかりました」と言っておいて、「素敵な死に場所というわけですね」とまたまた減らず口を付け足すところをみると、 「まあ、わかりましたと言っておきましょう」というしぶしぶのニュアンスは、やはりここでも含意されているようだが。
立ち去る際のマーロウの決め台詞。本作での名文句の一つであろう。
When my job makes me feel dirty I'll think of you. It will cheer me up no end."
「自分の稼業が卑しく思える時、あなたを思い出すことにしよう。少しは慰められるかもしれない」。
no endは文字どおりであれば、「限りなく」、「非常に」という意味だが、ここではシニカルな自己認識を伴った反語的なニュアンスでそういっているような気がする。
最後は例によって鮮やかな幕切れの一文。おとなしく引き下がったドクター・ヴァーレーをマーロウはこう描写する。
He had a job to do, putting back the layers of honey.
「彼にはやるべき仕事があったのだ。甘く蜜のように柔和に見せかけるレイヤーをまとい直すという仕事が」と。
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