テクノロジーが誘発するもの
シリーズ「映画のなかのマンション」では、世界の映画でさまざまに描かれてきたマンションを追ってみる。
シリーズ第三回は、『ハイ・ライズ』(ベン・ウィートリー監督 2015年)。ハイ・ライズ High-rise とは高層あるいは高層の、という意味。一般に高層マンションは High-rise apartment と表現される。
原作はイギリスのSF作家J・G・バラードの同名の作品。バラードはSFが目指すのは外宇宙(アウター・スぺース)ではなく内宇宙(インナー・スペース)であると主張し、60年代のニューウェーブSFを主導した。
バラードは70年代の<テクノロジー三部作>と呼ばれる作品で、テクノロジーが誘発するひとの無意識の欲望を描いた。本作の原作も<テクノロジー三部作>のなかの1975年の作品である。
本作でのテクノロジーとはタワーマンションのことだ。
地下基礎杭、耐震・制震・免振構造、工業化プレキャストコンクリート、大容量高速エレベーター、ユニットバスをはじめとする工場生産部材、24時間管理システム、遠隔監視防犯カメラ、タッチレスキー、非常用電源など、タワーマンションは現代のテクノロジーの粋を集めて作り上げられている。
映画『ハイ・ライズ』は、物が散乱したバルコニーで、主人公の医師ロバート・ラング(トム・ヒドルストン)が、ジャーマン・シェパードの腿を火で炙っているシーンから始まる。3ヶ月前までは、そこは理想の住まいのはずだった。
ロンドン郊外に建てられた40階建てのタワーマンション。総戸数1,000戸、小学校、スーパーマーケット、プール、ジムなどが設けられ、通勤以外はほとんど建物のなかで完結する理想の住まい。
そこに住むのは医師、弁護士、広告代理店の役員などの現代の知的エリートたち。最上階のペントハウスには、この建物の設計者であるアンソニー・ロイヤル(ジェレミー・アイアンズ)自らが住んでいる。彼らは毎晩にようにパーティーに明け暮れる日々を過ごしている。
停電に対する下層階の住民からの抗議をきっかけに、階層ごとの対立が激化、理想の住まいは、いつしか憎悪と暴力が剥き出しになった世界へと変貌する。EVが止まり、ライフラインがストップし、清掃が行われなくなり、塵芥にまみれるタワー。人びとは外出を止め、タワーに引きこもり、無秩序と廃墟の甘美さという倒錯の世界に沈んでゆく。
映画『ハイ・ライズ』が描く、現代テクノロジーの粋を極めたタワーマンションが誘発するものを断章風に挙げてみる。
高さが惹起する階層格差
遥か川向うにロンドン市街を見渡し、地上を睥睨するような上からの眼差し。高さはタワーマンションの存在理由であり、すべてを価値づける。
高さという価値の象徴として描かれるのが、アンソニー・ロイヤルが住む最上階のペントハウスだ。そこには広大な屋上庭園があり、羊が遊び、馬が走り回る。そこは天上の楽園のようであり、タワーの設計者であるロイヤルは、まるで世界を作った神のように最上階に君臨する。
40階、100mというタワーマンションの高さは、階層意識を誘発する。神に近い上層階、神に最も遠い下層階、その中間の中層階。階層が異なる住民の間では、格差意識が芽生え、疑心暗鬼、相互不信が蔓延する。
通常の高さを超えた高さだからこそ、より高く、より上にとの欲望を誘発するのがタワーマンションだ。
生命体としてのタワー
人工池を囲む5本のタワーマンションからなる壮大なマスタープランのなかで最初に完成した建物として、本作のタワーマンションは登場する。その建物は上層階で内側に徐々に張り出すような不思議なフォルムをしている。
設計者で最上階のペントハウスに住むアンソニー・ロイヤルはいう。5本のタワーは人間の手のイメージであり、池は手の平、最初のタワーは人差し指にあたり、上層階で内側に張り出すようなそのフォルムは、開いた手の末節骨(手足の指の先端の骨)の様子をデザインしたものだと。
「心的な事象を表す無意識の図表みたいだ」と設計図を見せられドクター・ラングの感想に、ロイヤルは我が意を得たりという表情で笑みを浮かべる。
「灯りや光は偉大な脳のニューロンのようだ。エレベーターはまるで心房だ。僕は廊下を細胞のように動く。動脈の網のなかで」と生理学の医師ラングは、タワーマンションを人体になぞらえる。J・G・バラード自身も解剖学、生理学の学徒だった。
ここではタワーマンションがひとつの生命体として提示されている。テクノロジーを生命になぞらえるのは、生命を機械やテクノロジーとしてとらえるという発想と表裏一体だ。
「人間は自身が作ったものの中に自身の姿を見ることで人間になるか、作ったものの中に自身の可能性を見出すことで人間になる。したがって、人間はただ道具を発明するわけではない。道具が人間を発明するのだ。もっと正確に言えば、道具と人間はお互いを生み出しあっている」( ビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー 『我々は人間なのか?』 ビー・エヌ・エヌ新社)。
近代における人間のための機械、あるいはヒューマンなデザインという考え方こそが、人間を超える機械、ポストヒューマンを志向するものだと、ビアトリス・コロミーナらは喝破した。
タワーマンションは、人間を目指し、人間はタワーマンションになることを欲望する。
自閉する世界
総戸数1,000戸、2,000人を超える人々が住むタワーマンション。
買い物、教育、フィットネス、ビューティ、医療、レストラン、コンシェルジュなど、至れり尽くせりの施設が完備され、このタワーマンションは、単なる建物というよりは、ひとつの街であり、ひとつの都市であり、ひとつの世界だ。
なんでも揃う便利さと快適さに依存した暮らしは、住民をストレスフルな外界から遠ざけ、人びとは自らすすんでタワーの世界に自閉するようになってゆく。
アンソニー・ロイヤルのパーティに呼ばれた翌朝、ドクター・ラングは理由もなく勤務を休む。
「翌朝、ラングははやくから起き出して張り切った。頭もすっきりして気分爽快なのだが、何故医学部を休むことにしたのか自分でもわからなかった」(小説『ハイ・ライズ』 創元SF文庫)
まるでタワーマンションに魅入られるように、引きこもり始める人々。ドクター・ラングはそれ以降、通勤を試みるも果たせなくなり、タワーに自閉する生活に至る。まるでタワーマンションと一体化することを望むように。
コンクリートの箱という抑圧
「二千人の入居者は、生活にゆとりのある専門職のほとんど均質集合体といったものを形成していた。(略)彼らは通常の収入と教育の水準からすれば、おそらく考えられるどんな階級混成よりも、たがいの差がすくなく、趣味と考えかた、流行と生活様式をおなじくし、それはマンションのまわりの駐車場にならぶ車の選択にも、エレガントでそのくせどこか画一的な室内装飾にも、スーパーマーケットのデリカテッセンでえらぶ高級食材にも、その自信に満ちた話しかたにも、はっきりあらわれていた」(同上)
コンクリートの箱という閉鎖環境に自閉する同質集団は、些細なすれ違いや取るに足らない差異でストレスを蓄積してゆく。そうしたストレスを忘れるように、人びとはパーティに明け暮れ、噂話にのめり込み、セックスに耽溺する毎日を送っているが、外界から隔絶されたタワーマンションのなかで抑圧されたストレスは、じわじわと無関心、無秩序、暴力というはけ口を見出してゆく。
テクノロジーによる完璧さの果てに
壮大なマスタープラン、豪華な建物、知的エリートの入居者。理想の世界だったタワーマンションが、何故、さしたる理由もなく、憎悪と暴力に満ちた、ゴミだらけで汚らしい無秩序な世界へと変わっていったのか。
アンソニー・ロイヤル=神によって、最先端のテクノロジーを駆使し、完璧な秩序、完璧な清潔さ、完璧な美として作られたタワーマンション。その完璧な生命体としてのタワーマンションに、唯一、馴染まなかったのは、そこに住む、細胞としての不完全な人間たちだった。
神の完璧さに反抗するように、人びとは生命体の内部に引きこもり、自らの自己破滅と引き換えに、神の手になる秩序と美を葬った。理想の秩序と清潔と美は、無秩序と汚れと醜さに支配された廃墟へと転落する。
頭脳と美貌と肉体美を誇るロバート・ラング(イギリスきっての二枚目俳優トム・ヒドルストンが、はまり役で演じる。その完璧な美を誇るようにヒドルトンは冒頭、早速、全裸で登場する)が、物語の進行とともに、徐々に薄汚く変貌していくことは象徴的だ。
何故、そうなったのか、ドクラー・ラングをはじめ、誰もその原因も理由もわからない。そのことは、彼らの行為が存在論的なもの由来していることを物語っている。
テクノロジーは人間によって作られる。人間もまたテクノロジーによって作られる。テクノロジーは人間に憧れ、人間はテクノロジーに嫉妬する。
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