失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
仕事納めと称しての蕎麦屋での一献。例年のことながらいいものですナー。今回も前回の忘年会編に続いて期せずして(ほんと?)のほろ酔い坂路地探訪イヤーエンドスペシャル。お付き合いのほどを。
恒例になった風情ある「赤坂砂場」での一献の後に、氷川公園の方へとそぞろ歩きながら至ったのが転坂(ころびざか)。赤坂6丁目をほぼ東西に氷川神社に向かって下ってゆく長い傾斜の坂で、まさに下まで転がっていきそうなこの坂の様子にぴったりの名前が付けられた優美な印象の坂道です。
転坂の途中を南に折れて、アメリカ大使館宿舎の東側をアークヒルズ方面へと下る坂路地は南部坂。ややカーブして先がブラインドになった様子や片側が切り立った石垣でブロックされた様子など、周りの建物はもちろん変わってしまっているのでしょうが、ちょっとミステリアスな 雰囲気は昔のまま残っている感じです。
ところで、広尾の有栖川公園の南側を通る坂も南部坂と呼ばれており、港区には南部坂が2つあることになります。不思議に思い調べてみると、いずれの坂の名称も奥州盛岡南部藩の大名屋敷に由来しており、かつては赤坂の南部坂上にあった南部屋敷と今の有栖川公園に位置した浅野内匠頭の下屋敷が相対替えになり、結果的に、2つの南部坂が生まれることになったというのがその事情のようです。
そういえば、この赤坂の南部坂は、忠臣蔵のなかの「南部坂雪の別れ」というエピソードで有名な坂です。本所吉良邸討ち入りの前日の夜、浅野式部少輔長照の下屋敷(今の氷川神社境内)に身を寄せる浅野内匠頭長矩の内室瑤泉院を暇乞いに訪れながら、邸内に吉良の密偵の影を感じ、その決意とは裏腹の仇討ちを諦め他国へ赴く旨を告げ、瑤泉院に難詰され、1人雪の南部坂を去る大石内蔵助、やがてその本意に気付き万感の思いで見送る瑤泉院、というエピソード。実はこのエピソード、実際は完全なフィクションといわれています。
南部屋敷が広尾に移ってからは、この赤坂の方の南部坂はもはや南部坂でもあるまいとして難歩坂やなんぽ坂と呼ばれていたらしいのですが、現在親しまれている名称は再び元の南部坂に戻っています。フィクションとはいえ、この辺の事情には元禄の江戸庶民に人気を博した忠臣蔵の名場面の影響が大きかったということなのでしょうか、こうした話を知れば知るほど、過去と現在の時空を自由に俯瞰するという醍醐味を味わえる江戸東京散歩とは、つくづく面白いものだと改めて思ってしまいます。
南部坂を下ったところは、旧の麻布谷町と麻布箪笥町。この麻布の谷地にも江戸の街の定石通り、かつては町屋が集まっており、永井荷風も偏奇館で自炊して暮らしていた当時によく買い物に来た町。
「時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひながら崖道づたいに谷町の横丁に行き葱醤油など買うて帰る折など、何とも言えぬ思(おもい)のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。」(『断腸亭日乗』昭和16年(1941)正月一日)
戦時下において「葱醤油」の買い物という日々の行為と「心の自由空想」とを結び付けているところなど、今日の言葉で言えば、ライフスタイルとでもいうのでしょうか、まさに永井荷風ならではと思わず脱帽してしまうセンスです。
南部坂を下りたところ、六本木通りから一本入った通りに「谷箪町」と旧町名から採った銘の入った明提灯が一つ灯されてました。街は変わっても街の記憶は思わぬところに残っおり、思わず嬉しくなってしまいました。そういえば、この道も六本木通りができるはるか昔、江戸時代からあった通りなのでした。
その旧町名が書かれた提灯に誘われるように訪れたのが久國神社。もともとは現在の皇居内にあったものを大田道灌の江戸城築城に際してこの地に移転したという由緒の神社。拝殿上部に掲げられた額の揮毫は勝海舟とのこと。海舟勝麟太郎は、南部坂上の氷川神社のすぐ裏手に住んでおり、この額の揮毫もご近所の縁ゆえなのでしょう。
ほろ酔い加減と称しながら実はほとんど酔っ払い状態の不信心の輩に対して、懇切丁寧に案内説明をしたいただき、さらに酩酊千鳥足に拍車をかけるありがたいお神酒まで振舞っていただいた神官さんへの多謝深謝のなか、激変デフレの2009年も暮れてゆくのでありました。
ほろ酔いににわか願掛け年の暮れ
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