失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
今回は四つ木橋で荒川を渡り葛飾の地に荷風の足跡をたどってみる。
京成押上線「八広」の駅のプラットホームからは荒川が一望できる。それほど「八広」の駅は荒川に迫っている。
土手沿いに北に歩き四つ木橋を渡る。
荒川、綾瀬川の2つの川を渡りきってちょっと入ったところが商店街「まいろーど四つ木」。御多分にもれず閑散とした様子の通りにシャッターを閉じたかつての老舗らしき店が静かに佇んでいる。
高架になっている四つ木駅をくぐり渋江銀座と書いてある細い商店街を歩く。通りには既に閉店となって久しいであろう木造の中華料理屋、トンカツ屋がかつての姿のまま風雨に晒され朽ち果てつつ存続している。かつての賑わいの後の沈黙と無念さがない交ぜになったような佇まい。
さらに路地の奥に眼をやると、日よけのビニールもすっかり破け、既に何屋かも不明になった建物が廃墟への道程のなかこれまたひっそり存在している。
ここ四つ木、立石あたりは、かつての高度成長期に日本の2次産業の隆盛を下支えした中小の工場が集まっているエリア。特にこの辺は玩具関係の工場が多く、昔お祭りで売られていたお面に使われていたセルロイドの製造やミニカーの「トミー」などで有名だ。
東四つ木から中川沿いの東立石あたりをさまよって見かけた工場の1つ。「ボルト ナット プレス用爪 金子鉄工所」とある(プレス用爪とはなんだろう?)。いかにも家族経営の小さな工場。「こうじょう」というよりも「こうば」と読むのがふさわしいような佇まい。
工場はいいナーとつくづく思ってしまう。会社が現場であるという臨場感。もちろん空調の効いた整然と静まり返ったオフィスも実は最前線の現場ではあるわけだが、工場はいわゆる肌感覚で現場が実感できるのが羨ましい。こうした思いには結局は「工場的なもの」を置き去りにしてきてしまったという個人的な感慨も少しは混ざっているかナ。
中川沿いのかつての製薬会社の跡地が広々した公園になっており、平日の夕方は近所のお母さんと子供たちで賑わっている。夕陽の彼方にスカイツリーが見える。そういえば、このエリアはマンションが多いという気がする。かつての工場が今は次々にマンションとなっているということなのだろう。
現在の中川沿岸は大半がいわゆるカミソリ堤防となって川面はほとんど見えないが、この辺の一体は堤防が切り下げられ水面を見ることができる。
幸田露伴に『蘆声』という小品がある。かつて露伴が寺島町(今の東向島)に住んでいた時分に今の平井六丁目と思われるあたりの中川に釣りに行く話だが、そこには「まして中川沿い、しかも平井橋から上の、奥戸、立石などというあたりは、まことに閑寂なもので、水ただ緩やかに流れ、雲ただ静かに屯(たむろ)しているのみで、黄茅白蘆(こうぼうはくろ)に洲渚(しゅうしょ)、時に水禽の影を看るに過ぎぬというようなことであった。」とある。
当然ながら、今の中川沿岸には茅も蘆もなく、ましてや水禽の影なども見るはずもないが、その流れの緩やかさは露伴の往時を想わせる風情だった。
中川沿いに歩き本奥戸橋に至る。
「雨中奥戸橋の眺望画の如し。」(『断腸亭日乗』昭和十七年(1942年)六月四日)
荷風が書いているように本奥戸橋と中川の眺めはなんとも美しい。もちろん、橋自体は荷風が見たものとは架け替わっているハズだが。
薄いブルーに塗られたシャープな造形の本奥戸橋が川面と空とをさーっと一直線に二分している様子など、まさに絵のような構成美。夕暮れ時に訪れたせいか、地平に近いところから茜色がかってきた青空を背景に街灯や信号や行きかう車のヘッドライトの灯かりなどが徐々に灯り始めるところなど、都会の一日の終わりの幸福感を感じさせてくれる光景だ。
橋の袂に江戸時代からの地蔵尊、馬頭観音、道しるべが残されている。道しるべは出羽三山の信者が講中参詣記念に残したものらしい。荷風の『断腸亭日乗』からの引用も記されている。
さほど期待しないで訪れた奥戸橋の意外な美しさに立ち去り難さを覚えつつ、夜の部のスタート地点である「立石」駅へと赴く。
to be continued
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