ル・コルビュジエは、自らの理想都市「輝ける都市」の実現化をいくつかのユニテ・ダビダシオンで試みた。建物を高層化し、太陽と緑を享受するというビジョンの住宅版だ。マルセイユのユニテ・ダビタシオン(1952)が有名だ。
日本にもコルビュジエの理想都市を志した集合住宅があった。コルビュジエに師事した前川國男による日本住宅公団の晴海高層アパート(1957)である。
(*『現代集合住宅』 ロジャー・シャーウッド編 エー・アンド・ユー 1975より)
1955年に発足した日本住宅公団が、それまでの郊外立地、3~5階建て、2戸1階段室型、南面並行配置という基本フォーマットを捨てて挑戦した公団初のエレベーターつき10階建の高層集合住宅だ。戦後の住宅不足は深刻で、当時でも270万戸の不足といわれ、高層化は住宅量産の切り札だった。
コンクリートによるマッシブなヴォリューム感のなかに、バルコニーからやや飛び出して納まる小梁、格子のようにみえるRC手摺、足許で裾広がりとなる柱などに、前川らしいどこか民族的で土着的な雰囲気を宿した建物だ。
(*『現代集合住宅』 ロジャー・シャーウッド編 エー・アンド・ユー 1975より)
建物をピロティで地盤から持ち上げ大地からの解放を宣言し、コンクリートの構造体を人工の土地に見立てて、縦に積み上がってゆく都市を構想する。屋上は空中の庭として住民に開放された。縦の「輝ける都市」であるユニテ・ダビタシオンのコンセプトである。
(*マルセイユのユニテ・ダビタシオン セゾン美術館『ル・コルビュジエ展カタログ』 毎日新聞社 1996より)
残念ながら晴海では、設計当初にあったピロティは途中で住戸化されてなくなってしまい、屋上も開放されることはなかったが、人工土地の発想に基づく、将来の可変性や自由度の担保に関しては、はるかに先進的だった。
晴海高層アパートでは、メガストラクチャーと命名された3層ごとのSRCの構造体のなかに、3層×2スパン計6住戸が嵌め込まれる構成になっており、横方向はもちろん縦方向へのユニットの変更が可能になっている。さらにブロック積みの戸境壁や室内に露出した配管など、空間の可変性と将来の更新性を強く意識した設計がなされている。
こうした空間と時間の更新性をインストールした建築という、後のメタボリズムにつながる発想が既に具現化されているのが驚きだ。
晴海高層アパートは1997年に解体されてしまったが、その一部がUR都市機構の集合住宅歴史館に移築・保存されている。
模型を見ると、部分写真をみて漠然と抱いていたイメージよりも、はるかに横長でかつ奥行きが薄い建物だ。奥行きの薄さはユニット面積の小ささを反映してのことだ。
(*集合住宅歴史館に置かれた晴海高層アパートの模型)
ユニテでは3層ごとの架構のなかに2層のメゾネットが噛みあうように2住戸組み合わされているが、ユニット面積が小さい日本の住宅ではメゾネット住戸は間取りのロスが大きく、事実上不可能なため(晴海のユニットは35㎡と44㎡の2DK)、3層毎に設けられた廊下から共用の階段を登り降りして、それぞれ上と下のフラット住戸にアクセスする方法(スキップアクセス)が考案されている。3層毎の廊下はコミュニティを意識して空中路地のような設えがなされている。
フラットな型枠による左官仕事の軽減、工業化されたプレキャスト部材の導入、日本初のプレス加工のステンレス流し台の採用、伝統的な寸法にとらわれない畳(約850×2,400)、モジュールを合わせた木製サッシュと障子、天井高いっぱいまで開口としたガラスの欄間など、晴海高層アパートには随所に、合理的な発想と住宅の量産化への先駆的な試みがなされている。モダニズムの倫理性や社会性にこだわった前川國男の意気込みが感じられる。
バルコニー側からみた非廊下階住戸(44㎡・2DK)の室内。居室はDK以外は畳の続き間になっている。畳は伝統的な寸法を無視した縦長サイズ。引き戸とガラスの欄間により、動線の回遊性と天井までの抜け感があり、今どきのリノベマンションのような開放感があるのに驚かされる。
手前左にあるのが日本初のステンレスキッチン。手前右に露出の配管がみえる。さすがに排水音は気になったらしい。
モジュールをあわせた障子と木製サッシュがモダンな印象だ。構造の柱・梁がないため、開口面積が大きく室内はとても明るい。奥にプレキャストのバルコニー手摺が見える。縦の部材は連子子(れんじこ)のような菱形の断面をしている。
3層おきに設けられた廊下は幅約2m。高層住宅においても住民同士が交流できる場を身近に設けるというアイディアであり、実際に立ち話や子供の遊び場になっていたそうだが、床の下は下階の住戸の専有のため、音の問題があり、遊び方などを制限したそうだ。廊下階の住戸の玄関扉は開けた扉が廊下に飛び出さないように引き戸となっている。
晴海高層アパートが晴海の埋立地に建てられたことは偶然だったのだろうか。
当時の晴海は、下町でもなく山の手でもない、都心でもなく郊外でもない、いずれにもあてはまらない場所だった。埋め立てによる人工の土地は、モダニズムの理想を作るには打ってつけの、まさに色のついていないタブラ・ラサだった。
当時の晴海の様子が同時代に作られた日本映画の名作に記録されている。
『秋立ちぬ』(成瀬巳喜男監督 1960)の不幸な境遇の幼い男女が都心の家を飛び出して「ここではないどこか」を求めて向かうのが晴海埠頭だ。海が青くないことにがっかりしながらも、砂浜(このころの晴海には砂浜が残っていた!)で波と戯れ、茫漠たる埋立地をさまよう二人にとって、晴海は不幸な日常から逃れる一瞬のアジールだった。
『しとやかな獣』(川島雄三監督 1962)は、高度成長が生み出した、したたかでニヒリスティックな拝金主義の家族を描いたブラックコメディの傑作。その舞台として晴海団地が選ばれる。家族は晴海高層アパートを高値の華だと羨みながら、丁々発止で世間の「善」と渡り合う。都市が生み出した破天荒な家族に似合うのは、人工土地による東京のフロンティアとしての晴海だったのだろう。
土地や家族のしがらみとは無縁に、なにもない代わりになんでもありで都市を生き抜いてゆく、そんな人々にとって晴海はアジールであり、フロンティアであった。たとえそれが人工の土地による束の間のそれであったとしても。
まさに「輝ける都市」にふさわしい場所ではないか。
晴海高層アパートがあった晴海団地は、市街地再開発により、今はオフィスタワーとUR都市機構によるマンションなどからなる晴海トリトンスクエアとなっている。
晴海高層アパートも、メガストラクチャーによる更新性や可変性のアイディアは一度も試されることなくあっけなく築後39年で取り壊された。
束の間のアジールやフロンティアは日常になり、晴海は都心に至近のWANGANエリアとして不動産市場に組み込まれてゆく。今や晴海はタワーマンションのメッカとして巨大建築がひしめく街として名を馳せている。
手つかずのまま残されていた晴海埠頭の南西部の晴海五丁目でも、現在、槌音が響き渡っている。2020年の東京オリンピックの選手村の建設現場だ。
タワーマンションが林立する今の晴海は、はたしてル・コルビュジエや前川國男が思い描いた「輝ける都市」が実現された姿なのだろうか。
そうもみえるし、そうでないようにもみえる。
*初出 zeitgeist site
copyrights (c) 2017 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。