食にまつわる書籍を紹介する“食のエクリチュール”シリーズ。
第7回は玉村豊男『料理の四面体』(鎌倉書房)。
料理は当然ながら、食べるものであり、作るものであり、そして思考するものである。
本書は構造主義という哲学的アプローチをもって「料理を思考する」書である。
冒頭に著者がアルジェリアの砂漠を彷徨っていた時に路傍のアルジェリア人に誘われて賞味した料理が登場する。ちょっと長い引用になるがそのワイルドな料理の臨場感を楽しんでほしい。
「すでに七輪のような(まったくこれが日本の七輪に似ている)コンロに炭火が真赤におこっている。
青年はそこにペコペコにゆがんだアルミの深鍋をかけ、大きなビンから黄色い濃厚なオリーブ油をドボドボと中に注いだ。そしてニンニクを袋からとりだして皮を剥き、手に持ったまま小刀で削ってたっぷり一個分を小片にして油の中に落とした。
油は煮え立ってくる。
油の中のニンニクの小片の周囲にふつふつと小さい泡が立ちはじめる。しだいにニンニクの輪郭の白がキツネ色に変わりはじめ、香気が勃然とたちのぼってあたりを支配する。そのころあいに、青年は袋から骨付きの羊肉をとりだし、無造作に鍋に中に放り込んだ。羊肉はあらかじめ骨ごと適当な(といってもかなり大きい)大きさにブツ切りされている。
青年はその全部を放りこんだあと、鍋ごと揺さぶってオリーブ油を均等に肉片にからめながら炒めた。そして肉の表面に焦げ目がついたころ、真赤な唐辛子の粉をかなりの量、上からバサバサと振りかけた。これは乾燥させた赤唐辛子を臼で挽いて細粉にした、あちらの市場で売られているもののようであった。独特の香気のあるこの調味料はアルジェリア料理には欠かせない。そしてもう一度鍋を揺すって混ぜ合わせてると、次にさきの袋からよく熟した真赤なトマト三つ四つとり出し、ヘタは手でもぎとって小川に捨て、トマトはそのまま鍋の上で手で握り潰した。褐色の指の間から真赤なトマトに汁がほとばしり落ちて羊肉を染める。
次に彼は袋から大きなジャガイモを二個とり出し(まったくその袋にはいろいろなものが入っているのだ)、小刀で皮を剥いてから四つ切りにして(もちろんこの作業も空中でおこなう)鍋に放りこんだ。そして塩をふたつまみほど入れて、もう一度鍋を揺すると、あとは火の営みにまかせて鍋にフタをした。真赤に燃えさかっていたしだいに峠をこして勢いをうしない、あとは自然とトロ火になる。その変化にまかせて羊肉をじっくり煮上げようという寸法である。
川べりに敷いた毛布の上にわれわれは車座となり、お茶を飲みながら話しをした。三、四十分たったころだろうか、料理番の青年が
「できたぞ」
と突然いった。
はたしてフタをとってみると、一瞬素晴らしい香りがひろがり、くもった眼鏡をあわてて拭って中を見れば、そこにはふつふつと羊肉が煮えていて、ジャガイモにも汁がたっぷり滲みて見るからにうまそうだ。食べごろであることは一目でわかった。そして小皿にとりわけて食べてみると、臭みのまったくない羊肉が香り高いトマト辛子ソースと一体になった、まったりとした味わは絶佳の一言に尽きた」
このすぐ後に著者は本書における核心を問題提起する。
「たとえばこの野蛮で強烈なアルジェリア式羊肉シチューと上品で洗練されたフランス料理のコトゥレット・ド・ムトン・ポンパドゥールとのあいだには、ほんの薄紙一枚の差しかない」と。
そしてこのアルジェリア式羊肉シチューを基点にした思考は、コトゥレット・ド・ムトン・ポンパドゥールを経由して、ブフ・ブルギニヨン、最後は豚肉の生姜焼きに行き着く。
「その相違点ばかりを見つめていると、あくまでもそれらの料理は相互に関連のないまったく別物ということになるが、共通点をたどってみれば」これらの「各種の料理は、実はひとつの料理なのだ。色即是空、空即是色。ひとつの本質が、時と所に応じてさまざまに異なる姿を見せるだけのことなのである」
同様に、ローストビーフとアジの干物はひとつの料理であり、刺身とサラダは同じ原理であり、さらにステーキもサラダだ!と喝破する。
構造主義とは、ある社会とそこにおける認識の背景には実は特定の構造が横たわっており、表に現れる現象としては一見異なっているものの間にも同じ構造が見出せるとした思想である。構造主義は、人間のすべての認識はあるものに囚われており、人間の思考は考えているほど主体的でも自律的でもないと主張した。
東西各国の一見異なるように見える様々な料理を実践・検討した結果、著者が見出した構造が書名になっている「料理の四面体」である。
とはいっても本書の真骨頂は、「料理の四面体」の具体的な中身やモデルとしての有効性うんぬんというよりも、そのプロセスを通じて「料理を思考する」という料理の新しい楽しみかたを発見したことにあるといえる。
「アジの開きがいっぱいに並べれれている漁村を歩きながら、ふと空を見上げてみよう。雲に隠れているかもしれない彼方には太陽があり、そこから熱線がアジたちの上に降り注いできているはずだ。干物の場合は、くんせいよりももう少し火から離れていて、火源との距離が一億5000万キロメートルほどあるだけなのである」
アジの干物は実は、直火から適度な距離を置いてグリルするローストビーフやうなぎの蒲焼、囲炉裏の上につるされた鮭(そう、スモークサーモンだ)や豚の三枚肉(その後にベーコンと呼ばれるであろう)、シェラ・ネバダ山の寒風にさらされた豚の脚(いわずと知れたハモン・セラーノ)と同じ火と空気を媒介にした料理だったとは!目からウロコとはこういう時に使う言葉だ。
構造主義の泰斗クロード・レヴィ=ストロースの理論をもってして解明されるアジの干物とローストビーフの裏に横たわる隠れたる構造。
大胆な着想と不敵な展開、なんとも楽しいでないか。
理論と実践の両方への目配せ、自国主義の独尊と他国主義の卑屈の両方から無縁な自由さ、国境や民族などの垣根を軽々と越える行動力、そしてなによりも遊びごころとウイット、本書にはこうした当時の玉村豊男の個性が見事に結実した著作といえよう。
事実、1980年の初版当時、伊丹十三は本書を高く評価し、その後も著者に料理を題材とした哲学理論の構築的な仕事を期待していたらしいとのことだが、その後の著者は、長野に農園「ヴィラデスト」を開くなど、理論というよりは実践の道を歩んできているのは周知の通りだ。
先に引用したアルジェリアの砂漠で振舞われた一皿を日本の都会のキッチンで再現しようとしながら、著者はこう指摘する。
「肝腎なのはつくりかたの豪快さである。この点だけがホンモノとそっくりに真似できる点なのであって、しかもそれがこの料理の味と雰囲気の再現のためにもっとも重要なポイントなのだ。(中略)トマトを手で潰すことも非常に重要である。ペーストやピューレではいけないというのはそのためだし、ブヨブヨの水煮トマトも抵抗感がないからダメ。完熟しているとはいえ一個の生きたトマトを、鍋に入れる寸前に手で握り潰す、その感覚が新鮮で野性的で、だからこそいつもと同じ台所の中にいながらどこか非日常的な瞬間を手に入れることができるのだ」
生きているトマトを手で握り潰すその手に残る感触が喚起する砂漠の小川のほとりの木陰での料理の記憶。都会のキッチンは一瞬のうちに砂漠の空間につながり、その感触は、やがて太古からの無意識を呼び起こすはずだ。他の生き物を自らの手で屠り、捌き、料り、生きる糧とする料理という行為の原点。生トマトを潰す手から伝わってくる不思議な全能感とかすかな後ろめたさがないまぜになったような感覚は、きっと野生時代の記憶が呼び起こされたものなのだ。
料理とはなんと人間的な行為なのであろうか。
さて、それでは、早速、我がキッチンでアルジェリア式羊肉シチューを再現するという困難にチャレンジしてみることにしよう。いつも通りの日常がほんの少しばかり新鮮で未知なものに感じられるかもしれないではないか。
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